コリント人への手紙 第一 7:1ー16
礼拝メッセージ 2016.5.22 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,私たちは、互いに対する愛と受容をもって生活するように召されています(1−6節)
人生相談に答えるパウロ
新聞のコラムに人生相談のコーナーがあり、時々読んでいます。作家やエッセイスト、弁護士など、さまざまな人たちが投書の質問に答えています。答えるのが難しい人生の難問ばかりですが、上手に答えていて、とても参考になります。
パウロのもとにも人生相談と言って良いような、質問がコリント教会から届いていたようです。残念ながら、質問者側の文章は残っておらず、それに答えたパウロの文章しか存在しません。質問は具体的な実際の問題であり、質問者とコリント社会の文化的背景もある上での質問に、牧会者としてパウロはここで答えているのです。ですから、この聖書箇所は、質問者からの言葉を想像して読まないと、意味がよくわからないところがあります。また答えのところだけを直接理解しようとしたり、そこで語られていることそのものを規則やルール化してしまうと、誤解が生じる可能性があるので、注意が必要です。この7章には、おもに結婚に関する事柄(結婚、独身、夫婦生活、再婚など)が取り上げられています。
互いを大切にし、結婚生活を継続しなさい
1節の「男が女に触れないのは良いことです。」は、パウロの言葉のように見えますが、英語訳(NRSV)が「“男が女に触れないことは良いことです”とあなたがたが書いていたことについての事柄ですが」と訳しているように、これは禁欲主義的傾向を強く持っている人たちからの極端な主張だった可能性が高いと思います。前の6章では、快楽主義を正当化するような人たちへの戒めでしたが、分裂分派の状況にあったコリント教会には、その全く逆の禁欲主義を唱えるグループも存在していたと思われます。続く2〜5節を見ると、パウロは結婚生活においては、特に性生活を行うようにはっきりと勧めていますので、結婚生活に入っている人たちに、禁欲を勧める意図はありませんでした。他の手紙でパウロは、結婚を禁じたりする考えは、惑わす霊と悪霊の教えに心奪われている人たちのものである(Ⅰテモテ4:1−3)と語っていることからも、彼自身が結婚生活を否定的に見ていたとは考えられないのです。
ギリシア的霊肉二元論で、霊的なことを善とし、肉体を汚れた悪のように考える思想は、実際に快楽主義か、禁欲主義のどちらか両極端へと走る傾向がありました。パウロは、ここで、結婚生活している人たちの中に、性生活を汚れたものと誤解し、禁欲したり、無理やり別れたりする人たちがいたことから、彼らの大きな間違いを正しているのです。
そうすると、第一にここで語られていることの直接のメッセージは、すでに結婚している人は、結婚生活を大切にし、互いに相手の心もからだもいたわり、愛し合って生活しなさい、と命じていることになります。2節の「不品行を避けるため」というのは、既婚者に対することと考えれば、良く理解できます。互いが誘惑から守られるように配慮し、祈り、誘惑に負けて罪に落ち込んだりしないように、心がけるようにパウロは言っているのです。
このことから夫婦以外の人たちにも広く適用できることは、他者への配慮と愛です。他の人への愛と献身こそが、主の十字架を知っている人の歩みなのです。4節で「妻のからだは夫のもの、夫のからだは妻のもの」とあるように、私たちは、相手のために、他者のために生きるよう召されているのです。
2,私たちは、神からの賜物に従って、それぞれの歩みが与えられています(7節、8−11節)
8−11節では、死別や離婚した人たちへの勧めと、離婚の禁止です。広く結婚などについて語っているこの箇所で、独身であることがむしろ勧められています。7節では「私の願うところは、すべての人が私のようであることです」と言われています。パウロ自身は独身でした。ずっと最初から独身であったのか、のちに妻と死別したことで、独身となったのかは不明です。イエスは、独身者は「それが許された者だけができる」と言われました。「というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」(マタイ19:11−12)。
しかし、パウロはこうあらねばならないとは言っておらず、7節で「ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。」と書いています。「人それぞれに行き方があります。」は直訳すると「ある人はこのように。ある人はこのように」と同じ言葉を重ねて、人それぞれに神から与えられた人生の中で、その賜物従って、歩めば良いと語られています。既婚者も、独身の方も、伴侶を亡くされた方も、青年の方も、いずれにせよその歩みの中で、主の恵みを覚え、喜びをもって生きることが大切です。そのように理解すると、ここの「賜物」とは、このあと12章から説明される、奉仕の「賜物」という狭い意味での「賜物」ではなく、もっと広い意味での「賜物」のように受け取れます。神から与えられた人生の時間、いろいろな能力、環境、備えられている家族、それら人生のすべてが、神からのギフト、賜物として受け取っていますか、と主から聞かれているような気がします。結婚も独身も家族も、すべて神から与えられた賜物として受け取っているならば、どうして、離別して良いはずがあるでしょうか、と10−11節で離婚が戒められています。それでも悲しくも離別に至ってしまうことがあります。でも「人それぞれに行き方」があって、また立ち上がって、しっかりと、神の賜物としての人生を歩み出すことが求められています。