使徒の働き 17:22-34
礼拝メッセージ 2016.6.5 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
アテネでの宣教
アテネはギリシアでも有力な都市国家でした。他の国々と同じように,ギリシアでも多くの神々が礼拝されていました。その中で,「知られない神に」という祭壇をパウロたちは発見します。このことによってこの世界のすべての神々への尊敬を示しているということ,逆に言えば,自分たちが礼拝していない知らない神々から罰を避けるという意味があったと思われます。
創造者である神
パウロは、世界を創造された神が存在することを宣言します。これは旧約に記されている天地を創った神の姿について述べています。創った神は人間の手によって仕えられることがないとは,神は像として刻まれることを拒否していることを意味し,神は人間によって支配されることがないことを意味しています。神が自然と人を支配しているのです。そして、知られざる神と言われているが、本当の神は近くにいます。それは旧約聖書だけに記されているのではなく,ギリシア詩人も記しているとしてパウロは2つの詩を引用するのです。神は人間の生活・社会に動いて,生きて存在しています。福音が言葉として伝えられていなくとも、神は働き、その考え方は実現している状況が存在します。しかし、ギリシアの人々にとってこれまでは世界を創造した真の神は「知られざる神」でしたが,今はそのような時代は過ぎ去りました。神は明確な形で、言葉を伴って世に顕れたのです。
そのような神の行動の証拠は,神が死者の中から「ある人」を復活させたことに求められます。そこに「知られざる神」がこの世界に知られるべきことになった確証です。この復活の話を聞いて,多くの人々はパウロを馬鹿にしました。復活そのものが馬鹿げていたように思われただけでなく,肉体を軽視していたギリシア人にとって肉体の復活は価値がなかったからです。
生き方という課題
使徒の働きの中でも、この聖書箇所は際立っています。ペテロやパウロの他の説教はイスラエルの歴史から語りますが,この箇所は天地創造の神から始められています。その神が遣わした者を復活させたことを語り,イエス・キリストの名さえも出てきません。また,聞いている人々の信じている神々の名前や考え方を使って,聖書の神について説明しています。しかし,いくら分かりやすく語ろうとしても,ギリシア人たちが信じていた神々と彼らが知らなかった神,パウロの伝える聖書の神とは違います。まったく旧約聖書の背景の人々に対しての宣教の言葉として,神が一人であること,その神がこの天地を造ったこと,その神は人間に利用されるような方ではないことなどを説明しなければなりませんでした。パウロの説教において,その違いの最も大きな点として復活の教えが挙げられているのです。
私たちが始めて聖書の教えやキリストについて聞いたとき,どのような違和感があったでしょうか? それは復活の教えとは限りません。ある人にとっては,奇跡の記述であったり,罪の教えであったりしたでしょう。神が一人であるという教えを受け容れられない人もいます。確かに教えの違いは躓きになります。アテネの人々はキリストの教えの本質が語られたときに躓いてしまいました。私たちも同じような経験を大なり小なりしてきたかもしれません。躓きは避けらないのです。
でも、人にとって本当の課題は、躓きを克服して教えを信じることではありません。生き方を変えることです。生き方が変わった人を通じて、新たに生き方を変える人々が与えられることです。教え自体は新たな生き方の説明に過ぎないことをわきまえておくべきです。イエスは教えだけでなく、その新たな生き方を示し、私たちに命をもたらしました。アテネの人々はパウロの教えを馬鹿にしただけでなく、「知られざる神」が示す生き方に無関心だったと言えます。そこに躓きの本質を見ます。生き方の課題を無視したのです。聖書が語るような、人が互いを大切にし合う生き方はどのような文化にも存在します。そこに共鳴する中で、各々の文化においてイエスの福音が生きたものになります。「知られざる神」はイエスの福音を通して自らを顕わし、私たちの文化においても働き、福音が実現していくのです。