「主を知っている知識の用い方」

コリント人への手紙 第一 8:1ー13

礼拝メッセージ 2016.6.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


 8章から11章にかけて、「偶像にささげた肉」を食べても良いかどうか、という当時の特殊な問題について、取り扱われています。これだけ長々と説明されていることからも、いかにこの問題が群れとして深刻なものであったのかがわかります。こんな特殊な問題が、現代の私たちとどういう関わりや意味があるのでしょうか。でも私たち日本では、これと似たことを多くの人たちが経験していると思います。例えば、先祖崇拝や神道や仏式の祭儀にどう関わるかという問題です。
 異教社会であったコリントなどの町には、神々を祀る神殿があり、そこで儀式でささげられた動物の肉が卸され、市場に出回り、各家庭で食されていたようです。異教の神殿側にとっても、それは大きな収益であったでしょう。教会は、食べるべきではないという考えの人と、食べても問題ないと考える人に分かれていました。「食べない派」は、「偶像にささげた肉」を食べることは、偶像崇拝をともにする行為と感じていました。反対に、「食べる派」は、偶像の神々は実際には存在しないのだから、ふつうに食べればいいではないか、と思っていました。


1,ほんとうの神様を知っているという知識を学びましょう

唯一の神以外には神は存在しません(4節)

 そこで、パウロはこの問題の解決のために、信仰による知識を語った上で、その知識をどう用いるべきかを述べています。まず、ほんとうの唯一の神を知っているという知識についてみましょう。「世の偶像の神は実際にはないものであること、唯一の神以外には神は存在しないこと」(4節)とは、教会にずっと来ている人には、何も珍しい教えではありませんが、そうでない人には、とても強烈で、反感を覚える言葉だと思います。コリントの町には多くの偶像があったそうで、その数は住んでいる人間の数よりも多かったそうです。けれども、聖書は明言しています。ほんとうの神はただおひとりだけです。その唯一の神だけを礼拝すべきなのです。

すべてのものはこの神から、そしてこの神のために(6節)

 「すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです」(6節)は、この唯一の神が私たち、そしてこの世界すべてを造られた創造主であられることを宣言しています。この神のご目的のために、すべては造られたのです。神は、人間がイメージして作り上げた幻想ではなく、神こそが存在そのものであり、私たちの存在根拠であるお方です。人間が中心ではなく、神がこの世界と歴史の中心です。

唯一の主なるイエス・キリスト(6節)

 さらに、パウロは、「神」だけに言及せず、「イエス・キリスト」を指し示しています。ここで注目すべきは「主」という言葉です。「主」とは、主人(あるじ)、王様のことです。あなたの主は、この世の皇帝や指導者ではなく、キリストただおひとりだけですと、誰に従うべきかを迫る言葉となっています。


2,知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます

知識の言葉がそのまま答えとならないときがある

 しかし、パウロは、これらの主を知っているという知識が、そのまま、この「偶像にささげた肉」の問題についての直接の答えとはしませんでした。4〜6節を読む限り、パウロの答えは、「食べる派」を支持するように見えました。けれども、7〜13節を読むと、その反対の「食べない派」を擁護するように結論しています。これはいったいどういうことでしょう。1節に戻って見てみると、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」と述べて、この章全体の意図したことを明らかにしています。パウロは、知識や主の教えをもちろん否定しているわけではありません。ときどき信仰生活は、「知識」ではなく、「愛」が大事と言って、「知識」あるいは主の教えを軽んじてしまうことがあり得ます。アンセルムスという人は「信じてのち、知ろうとしない人は、怠け者のそしりをまぬかれない」と言っています。多くの人は、たいてい勉強が嫌いです。勉強はとてもつらく大変だからです。神の教えを学ぶことも、骨の折れることです。ですから、このような箇所をもって、御言葉を学ばない言い訳にしてはいけません。ただし、知識を用いるには、愛が不可欠であることを、この箇所ははっきりと教えています。得た知識で高慢になって、相手を見下したり、兄弟を侮るのであれば、それは罪です。主を知っている知識には用い方があるのです。その用い方がここで問題となっています。 

「弱い人」の良心を大切にする

 ところで、ここに「弱い人」(9,11節)と表現されています。内容から見ると、この「弱い人」とは、「食べない派」の人たちを指しています。「ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです」。この表現から、「弱い人」とは、信仰の知識がまだ十分にない、信仰をもって間もない人、新しく加わった人などのようです。だから、そういう新しい人たちに「つまずきを与えないため」にパウロは、肉を食べないと語ったのです。
 パウロは、信仰を持っている人は主に従い、学んで、成長するように語っていますが、信仰を持とうとしている人や、新しい人への配慮を、信仰の群れに対して、強く促しています。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」。この「徳を建てます」は、このあと数回この手紙で使われる言葉で、直接には「(家を)建て上げる」という意味です。キリストによって結ばれた神の家を建て上げ、教会を建て上げることが、パウロの目的でした。実は、10節にも「力を得て」と言う表現が原文では同じ語ですが、そこから見ると、知識も建て上げる力があるのです。でも、もし、そこにキリストがその兄弟のためにも死なれたという信仰の理解と、兄弟愛がともなっていなければ、それは正しく「建て上げる」ことにはならないのです。