「権利を用いない自由②」

コリント人への手紙 第一 9:19ー27

礼拝メッセージ 2016.7.10 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,奴隷となる自由(教会としての自己否定)

 9章には、「権利」の語が多用されていることはすでに見ました。「権利」や自由は近代以降、とても重要な概念となって尊重されてきました。人権、生存権、教育権、参政権など、どれも大切な、人間が人間らしく生きていくために必要なことを守る力です。でも、反面、その「権利」は誤用されることも多く、一方的に自分の権利だけを主張して、相手の権利を無視して行く時に、争いが起こり、自己欲望の実現手段と化していくこともあります。
 自分には「権利」、「自由」がある(9:1)と明言していたパウロでしたが、19節以降では、その「権利」を彼がどのように使っていたか、そして教会の人たちがどう生きるべきかが明らかにされます。19節「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」とありますが、よく考えてみると、「奴隷」と「自由」とは全く反対の概念です。奴隷ならば自由はないし、自由ならば奴隷ではないことになるはずです。何でもできる自由、権利をもって、あえて不自由な奴隷となって生きるとは、ふつう考えられないことです。これはある人が言っているように「奴隷となる自由」という驚くべき逆説なのです。
 その「すべての人の奴隷」となる姿勢が、「ユダヤ人にはユダヤ人のように」「律法を持たない人々には律法を持たない者のように」「弱い人々には弱い者に」に表されるところの、人々に合わせて生きる、順応して対応する姿勢です。とても印象的な表現で、どんな人に対しても対応するとのパウロの強い思いが読み取れます。


2,他の人々に合わせて生きることのできる力の根源(教会としての自己意識)

 以前、私はこの箇所を読んで、主を知っている人も教会も、すべての人に合わせていくのは当然だと思っていました。でも、信仰生活をある程度送ってきた今、感じることは、これは容易なことではないとやっと気づきました。なぜなら、相手に合わせることはたいへんな努力が求められるし、自分自身を変える力を持っていなければならないからです。カメレオンを実験した風刺漫画があるそうです。カメレオンは周囲の色に合わせて、自分のからだの色を変化させることができます。実験では、カメレオンを、何とタータンチェックの上に置いたそうです。もちろん、そんな複雑な模様に姿を変ることはできません。そうすると、カメレオンはそのストレスに耐えられなくなって、ついには破裂してしまったそうです。
 カルヴァンは次のように注解しています。「かれは、人々に順応したといっても、内面においては、神の御前にあっていつもかわらぬ自分自身としてとどまっていたのであった。“あらゆるものとなった”これは、対象の要求するままに、いろいろと自分を変えることである。または、人間の多様性にしたがって、さまざまに自分のよそおいを変えることである。」(カルヴァン「新約聖書註解 コリント前書」田辺保訳 新教出版社)
 カルヴァンによると、すべての人に合わせることができるのは「神の御前にあるかわらぬ自分自身」を持っているゆえであると理解できます。他の人に合わせても、決して自分というものを見失うことがないから、それが可能なのです。「神の御前にあるかわらぬ自分自身」を確認することから始めましょう。けれども、すでに持っているならば、主のために権利を用いない自由に向かいたいと思います。そういう自由、寛容さは、主を知り、福音に生かされている人の中に与えられています(ピリピ4:5)。


3,「何とかして、幾人かでも救うため」という情熱(教会としての自己発揮)

 パウロの示す姿勢をイメージすると、あるひとりの方の生き方と完全に重なります。それはイエス・キリストです。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6−7)。この「神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして」というところに、このコリント書にあるパウロの生き方のスピリットがどこにあるのかを表しています。パウロの「ユダヤ人にはユダヤ人のように」「すべての人に、すべてのものとなった」は、イエスの生き方そのものでした。それは己を空しくする自己否定の道です。そうする理由は「人々を獲得」し、「何とかして、幾人かでも救うため」です。この「何とかして」(ギリシア語パントース)という副詞は、ギリシア語辞書によると「どんな事があっても、是非とも、どこ迄も、きっと、必ず」の意味が載っています。フランシスコ会訳聖書では「すべてを尽くして」と訳しています。パウロの気迫を感じる言葉です。この彼の心の温度、情熱の沸騰は、彼の内におられるキリストの心から来ています。


4,朽ちない冠を受けるために(教会としての自己制御)

 24節以降で、そういう情熱や気迫を一番よく分からせる例として、競技選手たちの姿を示します。スポーツ選手に共通している点の一つは、すべての選手たちは優勝を目ざして、その一事のために必死に取り組んでいるということ。もう一つは、勝利のために、彼らは厳しく自己管理、自制していることです。それは厳しい所に自分を追い込むことでしょう。ですが、彼らはそうした鍛錬を自分から進んで、それを選び、実践しているのです。きつく、つらいことでしょうが、それは同時に喜びです。朽ちる冠の獲得のためでさえも、選手たちはそれをしているのなら、われわれ、朽ちぬ冠を受ける者たちが、どうして節制できないことがあるでしょうかとパウロは勧めます。
 厳しく感じるセルフコントロールの勧めですが、これは素晴らしい約束の確認です。「朽ちない冠を受ける」というゴールが確かにあることを私たちに教えているからです。必ず、報われる時が来るのです。「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(15:58)。