コリント人への手紙 第一 10:1ー13
礼拝メッセージ 2016.7.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,信仰による父祖たちの歩み(歴史・物語)から学ぶ
パウロは旧約聖書の中に書かれているモーセや、出エジプトの出来事を「私たちの父祖」(1節)の話であるとし、「私たちへの教訓」(11節)と言っています。旧約聖書の歴史や物語が、外国の昔にあった出来事ではなく、むしろ、世の終わりに臨んでいる私たちに向けて記されたものとして受け取って、学ぶことが必要です。実に旧約聖書の人物や歴史は、私たちの信仰による霊的先祖の物語なのです。この1〜10節の内容は、旧約聖書の出エジプト記、民数記、申命記にその詳細が記されています。
1〜2節の「雲」と「海」は、エジプトで隷属状態にあったイスラエルの民が、雲の柱に導かれ、神が開かれた海の中の道を通り抜けたことを表しています。3〜4節の「御霊の食べ物」「御霊の飲み物」は、荒野での旅の中、神が与えられた食べ物マナのことや、岩から水を出されたことなどが表現されているのです。
少し理解が難しいことですが、これらイスラエルの民、私たちの霊的な先祖が経験した出来事が、この「雲」「海」(1,2節)が「モーセにつくバプテスマ」と書かれているように、洗礼式をアナロジー(類推、類比)として語っています。また「霊的な食物」「霊的な飲物」は、このあと語られていく聖餐式のアナロジーとして捉えられています。
これは旧約聖書をすべてこのようにアナロジーとして読むようにと言う意味ではなく、コリント教会の人たちが今、直面している課題について、旧約聖書をより近くに感じて、神から示されている真理を聞いてもらうために、パウロはそのような読み方をしたのでしょう。出エジプトの出来事と、その後の荒野の旅は、神の民にとって素晴らしい救いと解放でしたが、同時に、誘惑や試練に幾度も直面しました。荒野は岩と砂ばかりの砂漠地帯であり、そこで約束の地に着くまでの間、忍耐して、みなで行進しなくてはならなかったのです。
1〜4節で繰り返し「みな」(すべて)がという言葉が使われています。彼らの全員すべてが、神の救いと導きの経験をし、食料の奇跡的な供給を受けたのです。神の恵み、導き、満たし、などを、彼らはみな、確かに受けたのです。したがって、パウロがまず最初に明らかにしていることは、みなが神の恵みをいただいているという事実です。
5節で「にもかかわらず」とあるように、5〜10節で繰り返されるのは「彼らの中のある人たち」(7,8,9,10節)という言葉です。1〜4節に戻れば「みな」神の救いと恵みを経験したはずです。でも、全員ではありませんが、「彼らの中のある人たち」は「偶像崇拝」し(7節)、「姦淫」をし(8節)、「主を試み」(9節)、「つぶやいた」のでした(10節)。その結果、彼らは「滅ぼされました」(5,9,10節)。コリント教会の中で「偶像にささげた肉」を食するかどうかが問題となっていました。信仰の強いと思われる人たちは、「偶像の宮で食事する」(8:10)ことさえしていました。しかし、これは一歩間違えば、偶像崇拝の罪に捕らわれる危険がありました。この10章でパウロは、その問題の中で覚えておくべき、もう一つの大切な点である、偶像崇拝の危険を警告しているのです。
出エジプト記や民数記を読んでわかることは、私たちの人生は、まさに出エジプトをして、荒野の旅をしているようなものだ、ということです。荒野の旅は、楽な旅行ではありません。いろいろな誘惑もあります。疲れることもあります。けれども、歩いては休みながらも、とにかく目標に向かって前進していかなくてはなりません。その旅で、神がさまざまな必要を満たし、恵みのわざを経験させてくださいます。おそらく、この旧約聖書の話を1〜12節まで書いて、パウロはこう思ったのかもしれません。これだけ書いて終わるなら、あなたがたの多くも同じように滅びてしまうよ、という警告のメッセージだけが心に残ってしまうのではないかと。そこでパウロは、神が私たちを守ってくださることを優れた表現をもって語り、試練についての霊的原則を明らかにするのです。
2,試練は乗り越えられる
第一に、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません」と述べられます。この「人の知らないもの」とは、「人間的なこと」というのが原意です。その意味は、人間が直面する試練は、どんなに特殊に感じるものであっても、人間一般にふつう起こり得るものであるということです。試練の中にいる者の苦しみの一つは、自分だけがこんな試みを受けている、と自分の受けている試練を特殊化してしまい、誰も自分の苦しみをわかってくれないと、苦しみの中に閉じこもってしまいやすいのです。しかし試練はすべて「人間的なこと」であり、「人の知らないもの」ではありません。ですから、試練はどんなに大きく感じられたとしても、人間が乗り越えていける性質のものなのです。
第二に、「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません」ということです。これは、試練というものが、どんなに大きく感じるものでも、その人の許容量(キャパシティ)を越えることはない、ということです。この文章の中心は、原文では「彼(神)は、〜を許可しないであろう」(未来形)という言葉になっています。試練に会わせるのは神かどうかについては述べておらず、神は、私たちの限度を越える試練や背負いきれない重荷を担がせることを、断じてお許しにはならないということが言われているのです。
第三に、「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」と書いています。この「脱出の道」は、ほかの訳でも「逃れの道」のように訳されていますが、元々の意味は「出口」のことです。ある解説によれば、これは試練を避けて通る「逃れ道」のことではなく、試練のまっただ中を通っていったのちに、それを突き破っていく「出口」のことだとしています。突破口ということでしょうか。また「備えてくださいます」も、そのままの意味は、「彼(神)は、〜造るであろう」(未来形)ということです。何かの準備があるというよりも、神がその試練にいる人のために、確かな出口をこれから造り出していかれるという、神の能動的で力強い介入をイメージさせる表現です。
なぜ、試練は乗り越えられると言えるのでしょうか。それは神が「真実」だからです。このように、試練を乗り越えられる根拠も、その先にあるゴールも「神が真実な方」であるからです。