テサロニケ人への手紙 第一 5:19ー22
礼拝メッセージ 2016.7.31 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と多くの方々が目標としている生き方が16−18節に書かれています。喜び、祈り、感謝の命令は、クリスチャンだけではなく、誰でもそんな姿勢で生活していけたら良いのにと願っていると思います。注目すべきは、喜び、祈り、感謝について「〜しなさい」と命じられていることです。その気持があれば、そうしなさいというのではなく、「いつも」「絶えず」「すべてのことについて」と、どんなときにも、例外なくそうするように語られているのです。そして、それが神の望んでおられる御心であると18節で言われています。順調なときや、楽しいときには、喜び、祈り、感謝は容易なことかもしれません。でも、病気をしているとき、困窮しているとき、人間関係に苦しみ孤独を感じているとき、先行きの不安を抱えているとき、いったい何を喜べるのでしょうか、どう祈ったら良いでしょうか、感謝できることが何かあるのでしょうか。
このことについてのヒントを得るためには、私の理解では、後半の19−22節の命令を学ぶ必要があると思っています。特に19節の「御霊を消してはなりません」の言葉に含まれるメッセージは、いつも喜び、絶えず祈り、すべてを感謝することに大きく影響します。ギリシア語本文では、この16−22節はひとかたまりのかたちで表記されています。19−22節の部分と合わせて読むときに、16−18節がより明確に理解できるのです。では、「御霊を消してはなりません」とはどういう意味なのでしょうか。
1,「御霊を消してはなりません」とは、御霊の語りかける声を消してはならないということです
聖書を読むと、御霊はその姿やかたちは見えませんが、人に語りかける方として、よく示されています。心のうちで語りかける「声」で、それは私たちの内で決定的な発言権を持っていて「わたしのボス」と呼べる方です。人は誰でも内なる声を聞いているでしょう。自分の良心からの声もあれば、肉欲的な声もあるでしょうし、もしかすると誘惑者や悪霊の声も聞くでしょう。では、それが神の御霊の声であるのかをどうして知ることができるでしょうか。20−21節には「預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」とあります。私たちは判別しなくてはならないのです。20節の「預言」という言葉や、聖書全体から明らかなことは、御霊は、常に聖書を霊感されたお方として振る舞われます。したがって御霊は、おもに聖書の啓示を通して語られ、その範囲の中で語られるということです。ですから聖書を読むことが判断力を養うのです。
そして、一番最初に聞くべき御霊の声は、まず、主キリストを信じて、罪の赦し、救いを受けてください、ということです。「聖霊が言われるとおりです。『きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。』」(ヘブル3:7,15)。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(コリント第一12:3)と書かれています。聖霊の語りかけがあるならば、どうぞその声に聞いて従い、信仰の一歩を踏み出してください。
さらに、御霊は、私たちが主のかたちへと成長していくように語りかけられ、働いてくださいます。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(コリント第二3:18)。御霊なる主の御声は「いつも」「絶えず」「すべてのことについて」と語られて、これもあれも主のなさることであり、このことを通して、主であるわたしはあなたを主のかたちに形造っていると言われ、喜び、祈り、感謝するように語りかけられることでしょう。ルターは19節を「御霊を抑圧してはならない」と訳したそうです。私たちが自分の感情だけに支配され、振り回されて、喜び、祈り、感謝を捨てて歩むとき、それが御霊への抑圧になり得ます。御霊が働こうとしているのに、御霊が御言葉による光で、その人生の道を照らそうとしているのに、それを消してしまっているのです。ガラテヤ人への手紙では、それを肉の欲望と御霊の導きとの対立として描いています(ガラテヤ5:16−26)。
2,「御霊を消してはなりません」とは、御霊の現れである賜物を抑圧してはならないということです
「消してはなりません」という表現は、二つのメタファー(隠喩)を含んでいます。一つは、御霊が光であるということです。御霊がキリストを指し示して照らす光として考えると、その光を消してしまうと見えなくなってしまいます。もう一つのメタファーは、御霊は燃える炎であるということです。火は、熱を持ち、すべてのものを燃やし、のみ尽くしてしまう力があります。これは御霊の活動的なご性質を示します。もちろん、これは比喩的な表現です。ですが、確かに聖霊は私たちのうちに働いて、燃える何かを与えてくださいます。テサロニケ第一5章の文脈で見ると、それは賜物と関連していると考えられます。
コリント第一12章に「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです」(12:7)とあり、賜物という奉仕する力や能力が御霊の現れとされています。神は、私たちひとりひとりに異なった能力や賜物を与えて、私たちをキリストのからだなる教会の形成と前進のために、用いてくださいます。それはある面、単にそれを行う能力があるということを超えて、その人の内に御霊による熱意、情熱が与えられて、なされていくものです。奉仕している人の内に、確かに何かが燃えているのです。あるいは、自分自身の中にそういう気持ちを感じている方も多くおられると思います。誰かから言われたからしているのではない、御霊が私のうちに働いて促しておられるから、奉仕をしているのではないでしょうか。それはとても大切なことです。けれども「御霊を消してはなりません」と警告されているように、時々、私たちは、御霊によって燃えている火を消してしまうことがあるのです。自分のうちで消す場合もあり、外側から消されてしまうこともあります。たとえば、心ない言葉という消火剤によって、批判という冷却水によってです。確かに御霊によって燃えていると余計な煩わしさが生じ、面倒なことが起こりがちです。私たちの心は、たいてい静かにしておきたいので、燃えていないほうが楽なのです。「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(箴言14:4)。その意味では、宣教への情熱も同じです。この「御霊の現れ」(コリント第一2:4)も絶対に消してはいけないのです。