「人間がコントロールできる神」偶像礼拝

コリント人への手紙 第一 10:14ー22

礼拝メッセージ 2016.8.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,偶像礼拝とは、神ではないものを自分の拠り所として生きることです

 水曜日の祈祷会で、サムエル記や列王記を毎回学び、祈りの時を持っていますが、旧約聖書の歴史を見ると、イスラエルの歴史は偶像礼拝との戦いの連続であったことがわかります。モーセの十戒には、偶像礼拝をしてはいけないことが最初に明言されていました。しかし神の山でモーセを待っていた民は金の子牛像を造ってそれを拝んでしまいました。さばきつかさの時代から王国時代の歴史でも、バアル、アシェラ、アシュタロテなど、外国から流入した多数の偶像神に心奪われ、神からの怒りとさばきを招いたことが繰り返し記されています。旧約聖書では、偶像礼拝が国を衰微させ、滅びに至らせる直接の原因となったと教えています。
 偶像礼拝の愚かさは、旧約聖書の多くの箇所で語られています。たとえば「それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立て、これにひれ伏す。」(イザヤ44:15)とあり、「偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。」(イザヤ44:9)と言われています。しかしなぜ、そんなにも人々は偶像に心惹かれたのか、どうして偶像礼拝にこだわってしまったのか、不思議に感じる方もあると思います。多くの預言者たちの真剣な警告を聞いて、なぜ悟ることができなかったのかと、思われることでしょう。
 偶像崇拝と聞くと、金色に彩られた巨大な偶像神や、石や木で作られた色々な神々の像を前にして、人々が香を炊いたり、呪文を唱えて、ひれ伏している姿を思い浮かべるかもしれません。ギリシア語で「偶像」と訳されるエイドロスという言葉は「見る」という意味の言葉に由来します。目に見えることに安心を得たいという思いは、誰しも持っている感情です。また、その語を語源とする英単語がidolアイドルです。目に見える形を持っていて、その存在を確かめられるもの、しかも何らかの美しさや、麗しさを秘めている存在が偶像です。偶像は、人間の欲望が何かの姿や形となって投影されたものです。物体としての偶像は、都合の良いところに置くことができ、不要なときは隠しておけます。人間が都合よくコントロールできる便利なものです。ところが、時々起こることは、いつの間にか偶像の神々に人間の心が虜にされてしまい、その奴隷となって、不自由な者にされてしまうのです。
 コリント人への手紙の読者の多くは、ユダヤ人ではなく異邦人だったので、偶像についての危機感が薄かったかもしれません。偶像の神殿でささげられた肉を、その場で食べることまでしていたようです。私たちの多くも、多神教的風土に囲まれて生活していますから、その点で気をつけなければならないと思います。しかし、聖書が語っている警告は、気をつけましょう、と優しく注意する程度のものではありません。14節に「偶像礼拝を避けなさい」とありますが、これは「避ける」というより、それから「逃れよ!」「逃げろ!」という強い命令です。実は、偶像礼拝が何か宗教的な場所でまつられているものに儀礼を捧げることだけのように思いがちですが、そうではありません。ヨブの言葉です。「もし、私が金をおのれの頼みとし、黄金に向かって、私の拠り頼むもの、と言ったことがあるなら、あるいは、私の富が多いので喜び、私の手が多くの物を得たので、喜んだことがあるなら、あるいは、輝く日の光を見、照りながら動く月を見て、私の心がひそかに惑わされ、手をもって口づけを投げかけたことあるなら、これもまた裁判にかけて罰せられる罪だ。私が上なる神を否んだためだ。」(ヨブ31:24−28)。また、パウロは別の箇所でこう記しています。「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5、参照;エペソ5:5)。これらの聖書箇所からも明らかなように、神ではないものを自分の拠り所して生きるとき、人は気づかずに偶像礼拝をしているのです。ティモシー・ケラー牧師は、偶像を「神よりも重要とみなすもの」「心と思いのすべてを吸収するもの」「神からしか得られないものをそこから得ようとするすべてのもの」と定義しました(「偽りの神々」廣橋麻子訳、いのちのことば社)。ですから今日の偶像は、経済の豊かさや金銭欲、社会的成功や権力、恋愛や性的欲求、知的偶像としてのイデオロギーなどはもちろん、人間関係や家族の絆でさえも、偶像になり得るということです。それらがもしも神より重要なものとなり、あなたの心と思いのすべてを吸収してしまっているのなら、それこそがあなたの偶像です。それらの偶像は、確かに多くの供え物や犠牲を要求し、あなたのエネルギーを食い尽くします。たとえそれで多くの欲求が満たされたとしても、そこには真の平安はありません。むしろ心の中には、言いようのない失望や空虚感という穴を残すことになるでしょう。


2,新約聖書が語る真の礼拝は、キリストの交わりに生きることです

 パウロは、ここで偶像礼拝の危険を警告するだけではなく、コリントの教会の人たちがすでに受け、与えられている真の礼拝、キリストとの交わりについて明らかにします。アウグスティヌスは「わたしたちの心はあなた(主)のうちに憩うまで安らぎを得ません」と『告白録』(宮谷宣史訳、教文館)の冒頭で述べ、結びの38章で「あなたはつねに憩いです。それはあなたご自身が憩いそのものだからです」と書いています。
 聖餐式の中で読まれている16−17節ですが、新改訳聖書では「キリストの血にあずかること」「キリストのからだにあずかること」と表現されています。直訳すると「キリストの血の交わり」「キリストのからだの交わり」となっています。「交わり」「交際」とは、コイノーニアという語で、人格的交流や、共有することを意味します。私たちは、聖餐式を通して、主イエスと交わり、その十字架を覚えて、恵みを共有するのです。その反対にもし偶像礼拝するならば、偶像の背後にある悪霊どもと交流し、その仲間になってしまいます。
 キリストを個人的に親しく知ることは、主を礼拝し、聖餐にあずかること、祈ること、御言葉に聞くこと等を通してなされます。表面的な理解や喜びに留まらず、自分の心の奥の奥まで主に掘り下げていただき、あなたを癒やし、満たしてくださる方によって真の憩いを得、キリストのからだである信仰の友との交わりに入るように、聖書は勧めているのです。