「礼拝する心」

コリント人への手紙 第一 11:2ー16

礼拝メッセージ 2016.9.4 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,女性のかぶり物等について記す、この聖書箇所をどう理解すべきでしょうか?

 本日のところは、聖書講解をするのに、かなり難しい箇所です。女性が、祈りや預言をするときに、かぶり物をつけるように語られています。これは、一世紀の教会だけに適用されるべきか、現代はこれをどう受け取るべきかということを、まず考えなくてはなりません。それから、男性と女性との違い、特にその順序や立場について、どう理解すべきなのでしょうか。
 幾通りかの解釈がありますが、極端な一方の理解では、これを表面的に律法主義的に受け取り、女性は、礼拝のときは、かぶり物をつけ、長い髪にするべきとして、直接適用する人たちがおられます(教会の礼拝で、女性がかぶり物を着けることを実践している教会は存在します)。また反対側の極端は、これらの内容はすべて、当時の特殊な時代性や文化的なことであるとして、この中に書いてある多くの概念も過去の歴史的制約の中にあるとして、現代ではほとんど適用できることはないと考えている人たちもいます(たとえば、フェミニスト神学の立場の人たちは、独自の理解に立っているようです)。こうした両極端の見解にも、それぞれ傾聴する価値を認めつつも、私自身は、それらの中間的な位置に立って、理解する必要を感じています。
 したがって私は、この聖書箇所から、女性にかぶり物を着けるように教えるつもりはありません。また、男女それぞれの髪型に関して指導をするつもりもありません。けれども同時に、この聖書箇所が歴史文化的制約を受けているとして、軽視することもしません。むしろ、ここに記されている大切な教えの核となることについて、現代の私たちは十分に理解し、吸収する必要があると信じています。
 では、この箇所から、現代の私たちが聞く必要のあるメッセージは何でしょうか。それは神の前において、男性と女性との関係性やあり方が、どのようであるべきかということです。


2,男性が先で、女性が次、という秩序は必要ですか?

 男性と女性について、パウロが明言している大原則は、11〜12節です。「主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。…しかし、すべては神から発しています。」コリント教会の人たちは、これをおそらく誤解しました。男女の平等や自由を意識するあまり、両者の違いは全くないと考え、無視しても良いぐらいに理解したのでしょう。
 しかしこの聖書箇所は、男の次に女という順序を明確に語っています。これを創造論的秩序(the order of creation)と呼ぶ人もあります。でも、前提は11〜12節にあるとおり、男と女とは、それぞれ離れてあるものではなく、互いに必要としている存在です。そして、男も女もすべて創造主である神から生まれ出た存在です。その上で、最初に男性、次に女性という順序が語られるのです。また、この箇所で興味深いことは、女性のかぶり物や髪型について語っていても、男女の役割の違いについては何も触れられていないことです。4節と5節には、男も女も「祈りや預言するとき」と書いています。この場合の祈りは礼拝の中での公けの祈りでしょう。そして預言は、会衆に神の言葉を教え、語ることのようです。男女の役割の違いを述べているなら、かえってわかりやすいかもしれませんが、そうではないのです。それなら、なぜパウロはこの「かぶり物」や髪型にこだわったのでしょうか。


3,女性は頭にかぶり物を着けるべきでしょうか?

 4〜6節の「かぶり物を着ける」と訳されている言葉は、直訳は「覆う」「覆い隠す」という意味で、「かぶり物」やヴェールのことを直接には言っていません。そこである聖書学者たちによれば、当時の文化的背景として、ギリシアやローマ文化では、女性は公共の場で髪を束ねずに解かれた状態のままにすることは、ふつう恥ずかしい姿と見なされていて、それは娼婦を連想させるしるしであったと言われています。ですから、何らかのかぶり物をつけて、髪を覆うようにしていたか、あるいは長い髪を束ねていなければならなかったようです。当時の文化的なあり方を無視して、礼拝で女性が髪を束ねずに、振り乱した状態で、祈ったり、預言するのを見て、違和感を抱く会衆が多くいて、そのことをパウロが注意したと考えられます。「文化」や「習慣」について、聖書は、神の御心に沿わないものについては、それを拒否したり、戦う必要があることを語りますが、同時にそうではないことに関しては、かえって常識を肯定しています。この箇所でも2節「言い伝え」、14節「自然自体」、16節「習慣」のことを覚えて、自分自身で判断するように命じています(13節)。
 3〜7節で明らかことは、この男性と女性の順序を、神―キリスト―男―女、としています。つまり、男性と女性との協力関係は、御父である神とキリストとの愛の関係にたとえられているのです。そして繰り返し「頭(かしら)」の語が出て来ますが、頭は頭だけでは存在できず、からだが必要なのです。頭とからだは切っても切り離せない関係性を表しています。聖書はその関係性を一言で「愛」と言っています。エペソ人への手紙5:21−33では、夫と妻との関係をキリストと教会との関係で説明していますが、そこで記されていることも同じです。最初に夫、次に妻という順番はありますが、それは優劣ではありません。互いの愛と信頼がこの関係を強くし、育みます。現代においても男性と女性の主従的関係の順序は、神の前にある心の姿勢として、各々に、主から求められていることです。


4,男性と女性とに創造された目的は何ですか?

 7節で「男は神の似姿であり、神の栄光の現れ」であると書いています。この「似姿」「栄光の現れ」という表現は、創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」を思い起こさせる言葉です。男性と女性とは、天地創造に起源を持つ神の栄光を反映する者として、創造されたのです。男と女という両性を通して、神はご自身のかたちとご栄光を人間のうちに、そして神の民のうちに映し出されるのです。そして男性と女性とが心を一つにして、神の前に立ち、礼拝をささげ、神の教会を建て上げていくのです。