「主の死を記念する聖餐」

コリント人への手紙 第一 11:17ー34

礼拝メッセージ 2016.9.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,聖餐は、主イエスの十字架の死を覚えるためになされるものです(23−26節)

 コリント教会には、いろいろな課題がありましたが、それら諸問題の根底には、主の十字架がわかっていないということがありました。もちろん彼らは、イエスの十字架による罪の贖い、救い、それに心開いて、洗礼を受け、神の教会のメンバーになっていた人たちでした。でも、それは言わば、頭でわかっているだけの理解のようなものでした。主の十字架の心、その精神がわかっていなかったように思えるのです。パウロが、彼らの質問や問題に答えている内容を見ると、結局、主の十字架を覚えるように、思い起こすように彼らを教え、さとしています。しかし、これは、私たちも同様な失敗をしている場合があるかもしれません。
 聖餐式がご利益をもたらす単なる儀式的な振る舞いになってしまう時に、その精神や心を置き忘れてしまう時に、コリント教会の過ちを繰り返すことになってしまいます。この23−26節にある情景と言葉とは、どれも心に響く文章ですが、「わたしを覚えて、これを行いなさい」という繰り返しは、永久に私たちの耳の奥に残すべき主の御声ではないでしょうか。
 福音書の中で記されている、いわゆる最後の晩餐は、主イエスが弟子たちと取られた十字架直前の食事でした。「わたしを覚えて」とパンを裂いて配り、同様に「わたしを覚えて」と言われて、杯を回されました。その夜のことは、その場にいた弟子たちは終生忘れることのできない強烈な印象を与えたことでしょう。当たり前のことですが、私たちは誰も、その場には、いなかったのです。それはコリント教会の人たちも、パウロも同じであったと思います。でも、あの日、あの時の主の食卓は各々がイメージを持ち、「わたしを覚えて」いなさい、と言われるイエスのお姿を、そして愛にあふれたその心を、しっかりと覚えていなくてはならないのです。
 23節に「主イエスは、渡される夜」と書いてありますが、この「渡される」というのは、ユダの裏切りの意味に取る人たちもいるのですが、パウロがこの言葉を用いる時、それは人間によって「渡された」ことだけを意味してはいないのです。ローマ8:32で「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」とあります。ここで「御子を…死に渡された方」とは、父なる神のことです。実に、御父が御子を「渡された」のです。主もそれを苦しみつつ、受け入れられ、十字架で死ぬことの御心に従っていかれたのです。主の十字架の痛み、苦しみは、主イエスご自身の苦しみであると同時に、父なる神の激しい苦しみであったのです。私たちへの愛のゆえになされた御業でした。主の十字架は、私たちを生かす神のいのちの御力です。十字架は、私たちを主の愛で他の人たちを愛し、赦すように導きます。十字架は、宣教の奉仕へと、私たちを駆り立てるのです。


2,聖餐は、私たちが新しい契約の民であることを覚えるためになされるものです(17−22節)

 「新しい契約」(25節)とは、エレミヤ書31:31−34を指し示します。部分的に引用しましょう。「見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。…わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。…わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」エレミヤ書の預言が明らかにしているように、主が結ばれる契約は、ひとりひとりの自覚が要求されるものですが、それは個々に結ばれるというよりも、民全体として、共同体として結ばれるものです。ですから、イエスが「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言われた時、それはあなたがたは新しい契約の民になるのです、という約束でした。
 この聖餐に関するコリント教会の問題は、17−22節に明らかなように、聖餐の時に、貧富や地位の差(22節)で、聖餐にあずかることが出来る人と、そうでない人がいたようです。当時の聖餐式は、愛餐会のような食事会と合体しているものでした。現代では考えにくいことですが、聖餐の中で「めいめい我先に」というような状況がありました。ですから、パウロがここで言っている直接のことは、あなたがたは新しい契約の民として、互いに愛し合い、赦し合い、受け入れ合って、一致をもって歩んでくださいということなのです。新しい契約の民、キリストのからだとして、彼らは一体とされていることを自覚すべきなのです。


3,聖餐は、神のさばきがあることを覚えるためになされるものです(27−34節)

 聖餐のこれらの言葉を見ると、2つの「時」に目を留めるようにパウロが促していることがわかります。一つは、「渡される夜」から始まった主の十字架の時です。そしてもう一つは、26節の「主が来られる」と書かれている再臨の時です。私たちはこの2つの「時」の間に生かされています。主の十字架という過去と、主の再臨という未来の間に私たちの人生が置かれています。しかもこの2つの「時」は、「今」というこの時にしっかりとつながっています。十字架は過去の出来事であっても、私たちの「今」を支えています。そして再臨は未来の出来事ですが、この明確な神のさばきの介入を知っている私たちは、「今」を「今」という一点だけで評価せず、失望したり落胆しないように私たちを励ます一方で、同時に「今」を享楽や罪の中に溺れたりしないように警告します。
 ちょうどギターなどの弦楽器の弦のように、一方から一方へと張られていて、その緊張の中で綺麗な音色を奏でることができるように、私たちはこの2つの「時」の間に生きるという良い緊張感を保って生きていかなくてはなりません。どちらか一方の留め金から外れてしまったり、弛めてしまうと、正しい音を出せないのです。この27−34節は、繰り返し、神の「さばき」があることをもって、パウロは警告しています。十字架に架かられた主を忘れたり、再臨の主を無視している状態が、ここで言う「みからだをわきまえない」状態といえるでしょう。コリント教会の聖餐時の堕落した態度は、彼らの信仰の視野の欠落が原因でした。聖餐による主の十字架を覚えて、ともに歩みましょう。