コリント人への手紙 第一 12:1ー31
礼拝メッセージ 2016.9.18 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,私たちは、聖霊によって「イエスは主」という告白に導かれています
偶像は、ものを言いません
聖書によると、偶像の神々は、ものを言いません。それでも偶像には、2節にあるように、人々を惹きつけるような力や魅力が確かにあります。でも、何かの像を拝んでいる人たちはおそらく「そんなことはない、私に語りかけてくる」と言うかもしれません。拝む人たちに慈悲の声が聴こえると。けれども、ハッキリと偶像は語らないと聖書は言います。その意味は、人間の気持ちや感情を超えて、神の戒めを守って、こう生きなさいというような命令を人間に発することは、偶像にはできないということです。
偶像の前で人はいろんな願い事をして、好き勝手な要求をして賽銭を投げるでしょう。人々が聞きたいと思っている様々な欲求を偶像が語ってくれると、拝んでいる人たちは感じるでしょう。でもそれは、偶像が人間の願望を聞かねばならない物であり、人間が生み出した架空のバーチャルリアリティであり、まったく人間の奴隷にすぎないからです(参考;イザヤ書44:9−20)。
真の神は「イエスは主」という告白に導きます
しかし、真の神は、私たちに正しく生きるように、力強く命じます。たとい自分の願望を押し付けても、間違っているならば、神はそれを退けられ、罰することもあり、悔い改めを命じて、神の御心に従うように語り、導きます。
その最も大切な導きが、人々に「イエスは主です」と告白させることです。あなた自身があなたの王様でも主人でもない、また、他の誰か、皇帝陛下や社長あるいは株主でもない。あなたの主は、イエスただお一人である、との告白です。神の霊である聖霊が「イエスは主です」と告白するように導かれた人たちの集まりが教会です。この告白を基礎として、教会は、建て上げられていきます。さらに、その告白に導いた聖霊によって与えられる賜物のことについて、この12−14章で説明されています。
2,私たちは、聖霊によっておのおのに賜物が与えられているキリストのからだです
賜物とは何でしょうか
「賜物」とは何でしょうか。「私には賜物がありませんから、その奉仕はできません」と言うように教会でよく使われています。この漢字の意味にも表されているように、それは与えられたギフトの意味です。誰から与えられたものかは言うまでもなく、神から与えられた贈り物です。それは「御霊の現れ」でもあるのです。
4−6節は繰り返しの表現になっていて、「御霊」「主」「神」と末尾がなっていて、神の三位一体を表しています。そして文頭は「賜物」「奉仕」「働き」となっていて、すべて同じ意味ではありませんが、共通するものとして書かれています。ここから明らかなことは、その源は神であられるということです。ですから、それをお与えになった方のために使うときに、本来の目的に適った使い方ができるのです。
賜物という言葉を使うとき、教会の中の奉仕に限定して考えたり、あるいは能力や性格的なことを除外して考えることもできますが、私としては広く捉えてみたいと思います。というのは、能力や性格、情熱、力、経験など、どれもが結局は神が与えられたものであると思うからです。
賜物は多様であり、私たちは互いに違ってて良いのです
賜物は本当に様々です。別に人間観察をしなくてもわかることですが、皆さんの周りをご覧になってください。教会に来られている方々を見てください。本当に多種多様ですし、それぞれに到底真似のできない能力や技能を持っている方々がおられます。また、自分ならば忍耐したり、乗り越えられそうにないような経験をした人たちがおられるはずです。教会は神からのギフトが詰まった宝の箱です。
時に私たちは、他の人が自分と違うところを見て、羨んだり、妬んだり、苛立ったり、蔑んだりと、いろんな感情を抱くかもしれません。でも、この12章が明らかにしていることは、「違ってて良いのです」というメッセージです。いやむしろ、「異なっているから良いのです」ということです。
私たちは互いになくてはならない存在です
ところが、その違いが人間関係に摩擦を生んだり、衝突や分裂を起こしてしまうことがあるのです。15−16節の童話のようなセリフ、足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったり、耳が「私は手でないから…」というのはパウロ流のユーモアを交えた表現ですが、よく読むとこれは暗くて重たい言葉であることがわかります。特に後半の「からだに属さない」という声です。あたかも「私は教会には不要な人間です」とか、「私は教会に居場所がありません」という寂しい響きがあります。反対に、21節の「必要ない」は逆方向にいる立場からの声でしょう。しかし、その理解は両方とも間違っているのです。
パウロのそれに対する答えは、言い換えれば「あなたは絶対に必要な人です」となります。神はあなたをかけがえのないものとして、置いているし、愛しています。そして、一人ひとりは互いに必要としています。良い意味で相互に依存しているのです。足も、手も、耳も、どれもみな必要です。どれ一つとして単独で存在したり、用をなすことはできません。でも互いに必要な存在であることは、機能面や働きの内容や、量から決して測れない性質のものであることを知らなくてはなりません。何かができるから必要という人間的な物差しでは、測ることができないのです。
今回、この箇所から新たに気づいた言葉は「置く」という表現です。18節と28節に出て来るのですが、日本語では18節「備えてくださった」、28節「任命されました」となっています。しかし原文では「神は…置いた」と書いてあります。神が、私たちを、このところに置かれました。この時代の、この地域の、この家族の、この教会の只中に、神は置かれました。神が望んでおられる確かな御心に従って、賜物、情熱、能力、性格、経験をも備えて、私たちをそのあるべき場所に置かれたのです。それを受け止めつつ、互いが置かれた場所で御霊の現れとなれるように、神のご栄光を放つことができるように助け合い、愛をもってキリストのからだを建て上げていこうではありませんか。