「愛 ー 最高の道」

コリント人への手紙 第一 13:1ー7

礼拝メッセージ 2016.9.25 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「愛がなければ…」(主よ。愛を与えてください!)

愛の欠乏した世界

 多くの人たちが認識していることは、何につけても、愛が必要であるとの思いがあっても、現実社会においては、愛よりも優先しなくてはならないことがたくさんある、という思いかもしれません。あるいは、現代人は、極度に愛に欠乏し、愛を知らずに育ち、愛に失望しているのでしょうか。
 コリントの教会に宛てて、パウロがこれらのことを書いたのは、教会の中でさえも、本当の愛が見失われていたからだと思います。コリント教会には、知恵がありました。多様な霊的賜物を受けた人々がいて、きっと豊かで恵まれた教会だったでしょう。けれども、彼らは愛を見失っていました。

愛は、一人称の「私」から

 この1〜3節の文章を見ると、すべて一人称の「私」が主語になっています。「愛がないなら」と繰り返されますが、詳しく訳すと「愛を、私が持たないならば」となります。
 この「私」という一人称は、直接には、筆者であるパウロを指しています。確かに1〜3節のことは、パウロ自身のことと見ると、よくわかります。パウロは、確かに異言を語る賜物を持ち、預言の賜物、知識、信仰も、彼にはあったかもしれません。また、彼の施しや、献身は、実際にのちに殉教というかたちで、確かに実証されることになります。そのような信仰の人、預言の人、大使徒パウロ自身が「愛を、私が持たないならば」と語ったとしたら、それは自己内省を含めていたことになります。私のこれまでの奉仕生涯は、愛を持ったものであるのか、神への愛と人々への愛を中心に据えたものであったのか、とパウロは心で自問しつつ、主に仕えていたと思います。
 この一人称の「私」で愛をチェックすることは非常に重要です。なぜなら、私たちはそれをしないで、他人の愛をチェックするからです。「あなたには愛を感じない」とか、「この社会に愛がなく、冷たい」と批判は簡単です。そのようにして、愛というものを、人々への批判や、社会に対する攻撃材料にしてしまうのです。でも、愛を論じる前に、私たちがまず確認しなくてはならないのは、「愛を、この私が持たないならば」なのです。
 私たちの究極的目標は、ただ一つ、一点に集約されるのです。それが愛です。絵を描くときに遠近法、パース(英語のパースペクティブ)を使います。遠近法で立体を描く時、奥行方向に向かって最終的に交わる点があります。それを消失点と言いますが、ほとんどの場合、それは絵に直接描かれることはありません。でもそれが定まっていて、絵は調和した美しい姿を表現できます。異言、預言、知識、信仰、慈善、献身、それらの行いの向こう側には、愛という一点につながる目標、動機がなければ、それは神の御前で、まったく無意味なものとなるのです。


2,「愛は寛容…親切…」(主よ。愛を教えてください!)

愛は、自己中心的なものではありません

 次に、愛の讃歌と呼ばれる4節からの美しい御言葉に目を留めましょう。ここには、ほんとうの愛とは何であるかが示されています。実は、愛と口に出して表現し、言葉を知っていても、愛の本質というか、真の愛ということについて、知らない場合が多いのです。日本語の「愛」でも、英語の「LOVE」でも、ほとんどの人がイメージするのは、恋愛、ロマンス、心が暖かくなるような感情のことと思っています。間違いではありませんが、ここで語られている「愛」は、アガペーというギリシア語です。それは、フィリア(自然な人情や友情などの好意を表す)や、エロス(人間の愛全般に通じる言葉)とも違っています。その違いは、アガペーは愛される側ではなく、愛する方の主体に重点があると言われます。ですから、意志的愛とも言われます。愛される側が魅力的であるから愛するのではなく、愛すると決めた側が、その対象の姿や状況に関係なく、向けられる愛です。人間を愛される神の愛がまさにそれです。そこには無私の犠牲的な心があるのです。

愛の特性は、忍耐です

 4−7節に、愛はいくつかの表現で示されていますが、最初に2つの肯定的(〜である)表現、そして8つの否定的(〜でない)表現、そして最後に、「すべてを」を付けて、4つの肯定的表現となっています。これら14の特質を、一つ一つを見ていくと、そのうちの多くが、忍耐することに結びついていることがわかります。「寛容」「怒らず」「がまん」「耐え忍ぶ」と共通しています。4節「愛は寛容であり」の「寛容」は、よく言われるように、怒ることを遅くする、というのが直接の意味で、最近は「忍耐強い」と訳されることが多いようです(新共同訳など)。
 私たちの多くは、おそらく愛が忍耐であるとよく知っているでしょう。親が子どもに対して示すほとんどのことは、忍耐と自己犠牲がなければできないことです。親や伴侶への介護生活も、そうでしょう。そして私たちの多くは、神への愛のゆえに、会社や学校で、働き学びます。これも忍耐がなければ、勤まらないことです。実際に疲れておられる方もいるかもしてませんが、その耐え忍びなさっている一つひとつのことが、実に神の御前で覚えられている、あなたの捧げている具体的な愛の働きなのです。

愛は、別の動詞で働く

 これも詳細に見ないと気づきにくいことですが、この「愛は〜です」の14の言葉は、すべて動詞であるということです。日本語では名詞のように訳されているところもありますが、原文は全部動詞です。ですから、例えば「親切」は「親切にする」という動詞です。このことは、「愛」は、常に別の動詞として、別の動きとして、かたちになることがわかります。だから、「愛しています」と言葉で言っても、それはかたちに見えなければ、言葉だけのことになってしまいます。
 最後に、13章からの内容は、その1節から始まるのではなく、12章31節の「また私は、さらにまさる道を示してあげましょう」の言葉から始まっています。パウロは、ここで「まさる道」と言いました。これは「最高の道」と訳すこともできます。そして「道」とは生き方のこと、人生のことです。愛を中心に据えた生き方こそ、まさに人生最高の道なのです。