「愛 ー 永遠に残るもの」

コリント人への手紙 第一 13:8ー13

礼拝メッセージ 2016.10.9 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,愛は決して倒れません

愛という確かな存在

 愛は、人の心に浮かんでは、すぐに消えてなくなっていくような、頼りなく、弱々しい、何か空気のようなものとして、感じがちです。ところが、聖書ではそうではありません。愛は、前回の聖書箇所、4節「愛は寛容であり」の直訳では、「愛は忍耐する」とありましたし、本日の8節では、「愛は決して絶えることがない」、つまり、絶対になくならないもの、と書かれています。「愛は決して倒れない」とか、「愛は決して滅びることがない」などとも訳されています。E・H・ピータソンの訳では「愛は、決して死なない(ラブ・ネバー・ダイ)」(The Message)となっていました。人間の友情とか恋愛のような人間同士の愛を基本に考えると、この聖書箇所は、愛というものを理想化した、ロマンチックな絵空事のように感じてしまうことでしょう。でも、そうではないのです。ここで言われている愛は、神に結びついているもの、あるいは神を源としている愛という確かな存在なのです。

賜物はいつかすたれます

 8節では、賜物との比較で、愛を語ります。賜物とは、神から与えられる能力と理解できます。たとえば、預言の賜物は、神からのお言葉を預かって、それを人々に語る能力です。異言は、直訳で「舌」と書かれていて、天使の言葉とか、不思議な言葉などと訳される場合もあります。聞いている人にも、時には語っている自分自身も、意味内容を説明できない祈りの言葉です。この賜物は、神との交わりや祈りの生活において大きな恵みとなります。また、知識は、知恵や神の言葉の知識も含まれます。
 こうして考えると、神からの能力や知識は、コリント教会の人たちが考えたように、この世にあっては、ほとんど失われることのないもので、確かに価値あるもので、追求すべき素晴らしいものです。けれども、預言、異言、知識、もちろん他の賜物や能力も、愛ということとの比較で言えば、決して永遠のものではなく、いつかはなくなるものであると、パウロは教えているのです。

神から愛を学びます

 この13章で、パウロが語っていることは、賜物のことに熱中して、愛を忘れたら、本末転倒になる、ということです。極端に言えば、すべてのことは、愛のためになされることだからです。そしてここで語られている愛は、その存在感からしてわかるように、人格的な神ご自身を指していると言っても良いでしょう(Ⅰヨハネ4:8)。「愛は決して絶えることがありません」というのは、直訳すると「決して落ちない」という表現です。美しい花も、生い茂る立派な葉っぱも、枯れて落ちる時がいつか来る。けれども、愛は、そして神は、絶対に、枯れて落ちたり、滅んだりはしない。どんな災いが起ころうとも、どんなに厳しい環境や状況になろうとも、決してなくならない、それが愛であり、その源である神なのです。


2,完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます

今知り得ることは部分でしかありません

 9節の「というは」は、「なぜなら」という意味で、これから今まで述べてきたことの理由を語りますという合図です。愛は永続するのに、賜物はなぜそうではないのか。それは、現在、私たちが知ることができるのは、一部分でしかないからなのです。賜物は、主が完全な時をもたらしてくださる時までの限定的なもので、永遠に続いて用いられるものではありません。そして私たちが見ることができるものも部分的なことでしかなく、全体が見えている訳ではないのです。ですから、全部が見えている、わかっているかのように誤解して、まさに限界のある人間の知恵や知識で、起こっている事象だけを見て、すべてを判断はできません。ですから、早急な判断は控えて、へりくだって歩むべきなのです。

完全に知ることができる時が必ず来ます

 12節では、鏡の比喩があります。今日の鏡と違って、金属の青銅の板を磨いたものだったようです。そして当時、コリントは、その製造の中心地でした。古代の研磨技術では、顔を移しても、おぼろげにしか自分の姿を認識できなかったでしょう。この鏡に「ぼんやり映る」というのは、直接には「謎のうちにある」という意味です。しかし、その時が来ると、「顔と顔とを合わせて見る」と書いてあり、神様と直接お会いする、ダイレクトに神から教えていただけるようなそんな完成の時を示しています。
 12節をよく見ると「私たち」という一人称複数の部分と、「私」という単数形のところの両方があります。鏡を通して、見ているのは、「私たち」つまり、筆者のパウロも、宛先のコリント教会もすべての人のことを含むものとして書いています。でも、「今」という語のあとは、「私」単数で記され、パウロ自身のこととして書かれています。1〜3節で「私」と語ったパウロが、またこの11〜12節になって、出て来るのです。12節後半もやはりパウロの告白として読めます。自分の今を語るパウロがここにまた現れます。
 パウロも、一人の人間であり、限界性のある存在でした。確かに、彼は私たちとは違う、直接に神の啓示を受けるという特別な恵みにあずかっていた人かもしれません。しかしそれでも全部のことがわかっていた訳ではありませんでした。だから、地上にあってパウロは「今、私は一部分しか知りません」と言わざるを得なかったのです。ぼんやり映る鏡を見るように、人生の謎の中を手探りで歩いているようなこともあったでしょう。神は、いったいどういう御心をもって、私を用いようとされているのか、時に祈りのうちに、そんな疑問を持つことが、もしかするとあったのかもしれません。でも、わからないまま、偶然が支配するカオス(混沌)の渦の中で、自分が埋没して行くものとは一切思わなかったのです。主は生きておられ、必ず導いてくださると信じていました。いつか「完全なものが現れる」時が来ると、ハッキリと確信していました。自分のことを神が完全に知ってくださっているように、その時には、自分も神の示される全体を見ることができると、希望の光をしっかりと握っていたのです。そんなふうに、確かな希望に根ざしながら、愛を中心に、信仰と希望をもって、忍耐しつつ、へりくだって進み続ける、それがパウロの主にある勧めでした。