「遣わしたのは神」

創世記 45:1ー8

礼拝メッセージ 2016.10.30 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神が人生の導き手であることを信じましょう

ヨセフの波瀾万丈の人生

 数ある聖書の登場人物のうち、創世記のヨセフほど、波瀾万丈の人生を送った人はほかに見当たりません。彼は族長ヤコブ(イスラエル)の十人を超える子どもたちの中で、最も父親から愛された子どもでした。しかし、親からの贔屓があだとなり、他の兄弟たちから妬まれ、憎しみを受けることになりました。ある日、兄たちは十七歳だった彼を、荒野の穴に投げ込み、通りがかりの商人(隊商)に奴隷として売り、そして商人たちは彼をエジプトの役人に売り渡しました。神の憐れみにより、エジプトで奴隷であった彼は、その才覚が認められ、しもべとしての地位は向上していきましたが、あるとき主人の妻からの誘惑を退けたがゆえに、卑劣な報復として牢獄に入れられてしまいます。長い牢獄生活の中、囚人たちの夢を解き明かしたことが契機となり、彼は三十歳のとき王パロの夢を解き明かし、エジプトの宰相へと一気に引き上げられます。まさに奴隷から大臣となった人物です。

涙を隠して生きる日々

 1〜2節で、兄弟たちを前にして、ヨセフは、声を上げて泣きました。大国エジプトを支配する者が、自分の心を裸にして、人前で泣いたのです。実は、ヨセフは、これまでの記事を見ると、42:24「ヨセフは彼らから離れて、泣いた」、43:30「ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなり、…泣いた」とすでに二回「泣いた」ことが記されています。泣いたことがこんなに繰り返し出て来ることはやはり珍しいことです。でも、これはおそらく彼が泣き虫であったからではありません。三つの「泣いた」記事は、彼がエジプトの宰相となってから、兄弟たちとの再会があってからのことだからです。
 17歳から30歳という十三年間、現代的に言えば青春を謳歌できる時期に、奴隷として過ごさねばならなかった自らの境遇に、どんな思いでヨセフは向い合っていたのでしょうか。いろいろな「もしも」を思い浮かべたかもしれません。もし兄弟たちに売り飛ばされていなければ、またもしポティファルの妻の偽証さえなければ、あるいはもし献酌官長が自分のことを忘れなければ、人生のどん底を経験せずに済んだのに、という怒り、悔しさ、悲しみが当然あったと思います。私の人生は不幸と呪いでしかない、と思った時もあったでしょう。彼のこれまでの歩みは、人知れず涙を隠して生きる日々であったのです。けれども、ヨセフは、神が自分の全生涯の確かな導き手であり、神は常にともにおられるとの思い、その信仰による確信を決して捨て去ることはありませんでした。


2,神が人生の導き手であることを知るとき、生きる目的が見えてきます

主語を「私」から「神」に変える

 「神は…私を遣わした」という文章が、5,7,8節に三回繰り返されています。「私はエジプトに売られた」「あなたがたが私をエジプトに売った」という事実をヨセフは否定しているのではありません。でも、神が究極的には、すべての導き手であり、神がご計画を持っておられるという真理に基いて、主語を「私」から、「神」に変えて、自分の歩みを見ています。主語を「神」に変えることが、信じる、信仰を持つ、ということです。新しい信仰告白は「すべてのものの主である神は、」という言葉で始まっていますが、それは神があらゆることに絶対的な主権、支配力をお持ちになっているという意味です。創世記が語り、ヨセフが信じていた神は、まさにこの「すべてのものの主」、すべてのものの主権者であられる神なのです。

いのちを救うために

 すべての支配者、導き手である神を、自分の人生の主とする人には、使命が与えられます。私のためだけに、今、この私が生かされているわけではない、私は神のために生かされ、導かれており、それゆえ、神からの使命が、与えられている、そして今、ここに置かれている、ということです。神の光に照らされて自分を見る時、ヨセフは自分の弱さや失敗、人々の悪意や罪でさえも、人知を超えて神は、すべてを用いてご計画を果たしていかれることを悟りました(ローマ8:28)。ここでは、「いのちを救うため」(5節)、「残りの者をこの地に残す」ため(7節)、「大いなる救いによって…生きながらえさせるため」(7節)と、その使命が明らかにされました。これはヨセフに与えられた使命でした。神は、ヨセフだけでなく、すべての人たちに、それぞれに使命を与えておられます。


3,神が人生の導き手であることを知るとき、他の人との関係が変えられていきます

兄弟たちとの和解

 45章の劇的なクライマックスは、ヨセフと兄弟たちとの和解です。ヨセフの心の中にあった、決して消し去ることのできない深い傷は、自分の兄弟たちによって、エジプトに売られ、苦しみの日々を過ごしたことです。同時に、兄弟たちの側にも、罪悪感、後ろめたさ、自己嫌悪も忘れがたい記憶でした。両者ともに、神が出会わせてくださらなければ、その思いを抱いたままで、解決や和解を見ることができなかったことでしょう。
 でも、神が再会させてくださったことに対して、ヨセフが彼らにとった行動は、復讐するのではなく、この十年以上の歳月が彼らの心をどう変えたのかを試すことでした。44章の後半の、兄ユダの嘆願と、とりなしを聞いて、ヨセフは驚くべき行動に出ました。それは自らが誰であるかを明らかにすることでした。「私はヨセフです」(3,4節)との意外な言葉を聞いた兄弟たちの反応は、キリストを裏切って逃げた弟子たちが、復活の主と再会したときのようでした。でも、この「私はヨセフ」であると言うことによって、この兄弟たちは、人間にとって最も難しい課題である、赦し、和解、互いへの愛を、ともに受けることの一歩が踏み出せたのです。
 ヨセフの名前の意味は「加わる」という意味(30:24)でしたが、まさに、この日この時に、彼はイスラエルに加えられました。そしてこれから救い主へと続いて行く、イスラエル十二部族の新たな歴史の始まりとなったのです。