コリント人への手紙 第一 14:1ー25
礼拝メッセージ 2016.11.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,異言は神に話して自分を建て上げ、預言は人々に語って教会を建て上げる
異言とは何か
13章は有名な「愛の章」でしたが、14章は「賜物」の話に戻ります。「賜物」とは、神から人に与えられたギフトで、神と人々に仕えるための奉仕の能力と言うことができます。特に、この14章で話題にされているのは、「異言」と「預言」です。「異言」と「預言」は、音の上では「い」と「よ」の一字違いですが、聖書によると、この二つはそれぞれに異なった賜物です。
「異言」はそれがどんなものであるのかを明らかにすることが難しい賜物ですが、14章と他の聖書箇所からわかることは、神様との交わりのとき、たとえば祈りをするときに発せられる不思議な言葉です。あとで見ますが、その音声を聞いても誰も意味がわからず、解き明かしをする人がいなければ、周りは理解できません。原語では、「舌」を意味する言葉で表されています。そしてコリント教会での異言の賜物には、おそらく感情的な高まりや恍惚感が伴っていたと考えられています。
異言の意味
異言の賜物を強調するキリスト教会のグループも、今日多く存在しますが、私はここで、異言という賜物のことを少し広く捉えて、適用を考えてみたいと思います。預言と比較しての異言の意味を考えると、いわゆる異言そのものを語ることではないことであっても、異言のような経験、つまり神との神秘的な交わりであったり、感情的で心が非常に高揚した信仰の思いは、ある種の異言体験として理解しても良いのではないかと思っています。そうすると、意外と私たちの多くが持っているそれぞれの信仰経験のように思えます。
そういう意味では、主を信じるということの中に、別に異言を語ることがなくても、理性的に言葉をもって説明することができない何らかの信仰の経験や、神との交わりによる霊的な喜びは、ここで言う「異言」の中に含めて考えることができます。また、そのように理解したほうが、この14章をよく理解することができます。
そこで4節に目を向けると、パウロは「異言は自分の徳を高める」と言っています。直接的には、預言は教会の徳を高めるから、預言の方が優れていることがここでの中心的な意味です。けれども、パウロは異言は不要であると言っているのではなく、自分の信仰を建て上げてくれる賜物として語っていることに留意したいのです。異言というものは、他の人たちにその意味内容を伝達できない弱みはありますが、私はそれも大切にして良い、信仰の部分だと思います。とは言っても、それは特殊な体験を求めることではなく、日常生活から少し退いて、ひとりになり、神の御前に出て、黙想する、祈り、静まる。これは、確かにあなたを建て上げていく大切なことです。邦訳では「徳を高める」と訳されていますが、これは「建て上げる」「造り上げる」という意味です。
ペテロが「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(Ⅰペテロ1:8)というとき、知性を超えた神との交わりのうちにある喜びを語っていたでしょうし、聖書の中に記された預言者たちの種々の幻視体験(例;イザヤ6章、エゼキエル1章等)も、それが固有の特殊なものであったにせよ、人間理性を超える信仰の経験でした。理性や知性だけで測れないことが、信仰には存在しますし、ふつうの言葉で表現できない信仰の経験もあることをよく覚えておきたいと思います。
預言とは何か
ところが、もし皆が、異言的な、自分の信仰が深まることのみに関心をもつだけで終わるならば、それは神の教会を健全に建て上げていくことにはなりません。たとえひとりひとりの霊性や信仰が素晴らしく見えたとしても、それは教会全体にとっての祝福とはならないのです。14章全体が示しているように、教会という交わりにおいて、求めるべき大切な賜物は「預言」なのです。「預言」は、「言葉を預かる」と書きます。それは神の言葉を受けて、それを人々に語る賜物を表しています。預言も、この14章が示すところを見ると、狭義に捉えずに、神の言葉、聖書を学んで理解し、人々に語る能力として、広く理解するほうが、文脈理解にも、適用としても、ふさわしいことだと思います。
2,異言は他の人たちに内容を伝達することが難しい
5節以降でパウロがたとえを使いながら示していることは、異言はその個人の信仰を深めることはできても、他の人たちに伝達することが難しい賜物であることを教えています。そして、このことは、教会の中の交わりやコミュニケーションの課題について考えさせてくれます。なぜ、このことがわからないのだろうか、言わなくてもわかるはずのことなのに、などと互いの意思疎通が思うようにいかないことがありますが、異言の課題はまさにそこにありました。異言は素晴らしい賜物ですが、伝達ができないという側面を持っていました。パウロがそれゆえに勧めていることは、13節に記されています。「それを解き明かすことができるように祈りなさい」ということです。異言が他の人たちに益をもたらすためには、「解き明かし」が必要でした。神様からいただいている恵みや経験を分かち合うために、「解き明かす」力が、コミュニケーション能力が与えられるように祈り、努めていくことが必要なのです。それでも自分の力が及ばないならば、27〜28節のように、解き明かしの出来る人に援助を求めるのです。
3,異言は誤解を与え、預言は信仰へと導く
特に、20節以降で語られていることは、異言と預言が、初心の方や信じておられない人たちに対して、どうかということです。異言は、初めて教会に来る人や、信仰を持っていない人には大変な違和感を与えることがあり、「彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか」(23節)とまで書いています。ところが、預言は、「罪を示し」「心の秘密をあらわにし」「ひれ伏して神を拝む」ようにと導くことが記されています(24−25節)。神の言葉は、あらゆる人たちの心に働いて、救いを受けさせることができ、そのようにしてあなたと教会とを建て上げるものなのです(参照;Ⅱテモテ3:15,ヘブル4:12)。