「すばらしい喜びの知らせ③」

ルカの福音書 1:39ー56

礼拝メッセージ 2016.12.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,マリヤのエリサベツ訪問は主イエスとバプテスマのヨハネとの関係性を教え、主の訪れを予期させるものでした(39-45)

主が私のところへ来られる!

 マリヤのエリサベツ訪問について、ある人たちはちょっとした疑問を持ちます。どうして、マリヤは、ご主人のザカリヤにあいさつをしないで、奥さんのエリサベツにあいさつし、また訪問したことになっているのか。これはひねくれた質問だと取り合わない学者もいるのですが、私はそうではないと思います。むしろ、マリヤが出会うべきは、ザカリヤではなく、やはりエリサベツなのです。というのは、このシーンの中の隠れた本当の主人公は、マリヤとエリサベツではなくて、彼女たちのお腹に宿っていた子どもたちだからです。このとき、それぞれ胎内にいたのが、主イエスであり、バプテスマのヨハネであったのです。
 四福音書のすべてに、エリサベツが宿していたバプテスマのヨハネの働きが紹介されています。そのこともあって、主イエスとヨハネとの立場や関係性について、ルカは読者が正しく捉えられるように、この過去の出来事を書き残しました。ヨハネは、主の前ぶれとして、先駆け的働きをするように、神から使命を与えられている人でした。しかし、忘れてはならないことは、ヨハネの働きは大きくても、彼はあくまで預言者の一人であって、それ以上の者ではないということです。彼は、主を指し示す「荒野で叫ぶ者の声」(3:4)に過ぎませんでした。そういう意味では、彼は、これから多く世に現れる、主イエスに仕える人間すべてを代表しての登場だったのです。
 主イエスとヨハネとの関係性は、3章15〜17節に書かれています。ヨハネは言います。「私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません」。したがって、ここに記されているエリサベツに見られる謙虚さも、ヨハネが荒野でイエスと出会ったときの姿勢と全く同じです。エリサベツは高齢で、マリヤはおそらく十代の娘でした。年下のマリヤを見て、エリサベツが言ったセリフを見てください。「私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。」(43節)。マリヤを「主の母」と呼び、大いに感謝しつつ、恐縮しています。この文章から「母」という語を抜いて読むと「私の主が私のところに来られるとは、何ということでしょう!」となります。
 このエリサベツの感嘆の声は、主なる神がへりくだって、貧しく弱い自分のもとに、自ら進んで来てくださったことへの感動と喜びを示しています。この出来事から教えられることは、エリサベツがマリヤの訪れを喜びをもって迎えたように、私たちも、私たちのところに来てくださった主に、心を大きく開いて、感謝してお迎えすることです。

主が私を祝福される!

 一見すると、マリヤではなく、エリサベツがマリヤを祝福したように見えます。けれども、「あいさつ」(40、41,44節)という言葉に注目してください。これは、私たちが日常的にしている形式的なあいさつとは異なっています。それは、祝福のあいさつ、あるいは祝福そのものです。なぜなら、このマリヤのあいさつの声がエリサベツの耳に届いたとき、彼女と彼女の胎内に大きな変化が起きました。なんと胎内の子どもが「喜んでおどりました」(41,44節)。「おどりました」という語は「飛び跳ねる」という意味です。それほどの喜びがお腹の中で感じられたのです。しかも、エリサベツ自身が「聖霊に満たされた」のでした。その子ヨハネ自身も「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」(1:15)おり、父ザカリヤも後に「聖霊に満たされ、預言」(1:67)しました。こうして見ると、主が私たちのところへ来てくださるのは、私たちを祝福するためであると言うことができます。でも、その祝福は、人が一般的に考えているような「幸福」とは異なっています。祝福の内容は、たとえば、3つの賛歌に歌われています。マリヤの賛歌(1:46−55)、ザカリヤの預言(1:68−79)、御使いの賛美(2:14)。


2,マリヤの賛歌は神から来る大きな祝福について教えています(46-55)

私に目を留められる神(47-49)

 マリヤの賛歌は、ふつう「マグニフィカート(あるいはマニフィカト)」と呼ばれています。音楽では、ヴィヴァルディやバッハの楽曲でも有名です。マグニフィカートとは、ラテン語訳聖書ウルガタで、「マグニフィカト・アニマ・メア・ドミヌム」(私の魂は主をあがめます)の最初の言葉から取られています。ラテン語の「マグニフィカト」は大きくするという意味で、神の偉大さを表しますということです(原文のギリシア語「メガルノー」も同様の意味)。しかも「わがたましい」というのは、気持ちや精神といった内面的なことだけではなく、その人のすべて、全存在を賭してのニュアンスがあると言われます。
 なぜ、マリヤがそんなに力強く、主をあがめることができるのかという理由が、48〜49節に明らかにされています。一番目の理由は、48節の「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」という、神が私のことを覚えていてくださることです。「卑しいはしため」の表現がありますように、主が目を留められるのは、その人の功績や能力等の理由によらない、神の一方的な恵みなのです。もう一つの理由は、49節「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」ゆえです。「大きなこと」の中心は、マリヤが御子を宿したことでしょう。でも厳密に言えば、この「大きなこと」(英訳では great things)は複数形なので、それ以外のことも含んでいるかもしれません。神はその御力をもって、私の人生においての、いくつもの「大きなこと」を生み出し、与えてくださったという感謝です。

この世界にあわれみを与える神(50-55)

 マリヤが信仰の眼を通して見ていたのは、自分の上にだけに神の恵みが注がれているのではなく、主の幸い、祝福は、この世界全体を大きく変える神の働きであることを理解していました。その神の御業を「あわれみ」(50,54節)と呼んでいます。賛美の中で、二つのグループが対比されて描かれます。「主を恐れかしこむ者」「低い者」「飢えた者」「イスラエル」という弱い立場の人々と、「心の思いの高ぶっている者」「権力ある者」「富む者」で、この世にあって強い人たちです。神のあわれみの御業が、この世界に介入するとき、世界は変革され、価値の大逆転が起こります。それは「主を恐れかしこむ者」には大きな祝福となり、「心の思いの高ぶっている者」には、神からの厳しいさばきとなって起こることになります。