「復活はあるのか?」

コリント人への手紙 第一 15:1ー19

礼拝メッセージ 2017.1.1 元旦礼拝 牧師:船橋 誠


 今回から数回にわたって「復活」について学びたいと思います。とても重要な信仰の教理である「復活」をしっかりと理解し、受け取って、新しい一年の旅路を始めていきたいと思います。
 基本的な内容である「福音」や「復活」について、手紙の終わりになってなぜ書いているのだろうか、と当時の読者であるコリントの人たちは、いささか不思議に感じたかもしれません。しかし、それはここに取り扱う「復活」のことが、これまで論じられた諸課題のすべてに通用する重要なものであったので、パウロはこの書全体のクライマックスとして、このテーマをもって締めくくりとしたのではないでしょうか。


1,復活は、福音の本質です

キリストの十字架と復活が福音の核心

 3〜4節をよく御覧ください。ここに福音の核心部分があります。「キリストは、…私たちの罪のために死なれたこと、…葬られたこと、また…三日目によみがえられたこと」です。どうか、ぜひこの福音の本質であり、核となる内容をしっかりとともに受け取りましょう。キリストは、あなたを愛し、あなたの罪の赦しのために、十字架に架かられて死なれたのです。そして、三日後によみがえられました。このキリストこそ、あなたの主、あなたの導き手、あなたの王です。このメッセージをともに受け入れましょう。
 ここのところでパウロが強調していることは、十字架ではなく、復活です。この書では、最初に「十字架のことばは滅び至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力」(1:18)と記し、「十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」(2:2)とパウロは言っていました。しかし、ここでは、復活のキリストのことを宣言します。キリストは十字架に架かられて死んだだけではなく、よみがえった方、復活者であるということです。5〜8節を見ると、繰り返し、(復活したキリストが)「現れました」と書いています。復活は、まさに福音の本質であり、土台なのです。

復活を正しく理解し、受け取っていなかった人たち

 12節「どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」と書いてあるように、コリントの町は、ギリシア世界でしたから、思想的に霊肉二元論の考えが一般的であったことはすでにお話ししたとおりです。二元論的な頭では、どうしても、復活ということが受け入れがたい真理であったと想像できます。霊魂が復活するのは分かるが、からだが復活するというのはどうも理解が難しかったのでしょう。しかし、この二元論的な信仰理解が、コリント教会の諸課題の根底にあることをパウロは見抜いていました。汚れた肉体は滅び、霊だけが残るというような聖俗二元論は、罪や快楽の言い訳や逃げ道を作り、あるいは極端な禁欲主義に陥る結果を生み出していました。
 では復活とは、どういうものでしょうか。先に、それが復活ではない間違った考えを見ておきましょう。たとえば、復活を単なる蘇生と見たり、からだの無い霊魂のみのこととして捉える理解です。蘇生の理解では、キリストは十字架に架けられたが、完全に死んでいない状態で、降ろされ、埋葬された。だから、納められたお墓で蘇生して、脱出していなくなったのだ、と言うのです。でも、それは無理です。十字架にかかるまでに相当ひどい拷問を受け、十字架刑にされた訳ですから、たとえまだ生きていたとしても瀕死状態で、とても人々に復活を示すようなことはできなかったはずです。
 あるいは、また、復活は、死んで霊魂だけが天に帰って行ったのだと考える人もいます。残された信者たちの願望が投影されて、幻を見たのだと言うのです。でも、それでは復活したことにはなりません。5〜8節の「現れました」の繰り返しが、そのような考え方を全面的に否定しています。この当時、生きている人たちの確かな目撃証言が存在しました。


2,復活は、信仰の本質です

復活という驚くべきこと

 復活ということを真正面から見ると、これはとてつもない出来事であったと言えます。常識や人間理性を明らかに超えている話です。キリストがよみがえられたということは、すべての人たちにとって、最も確かな現実である、人間が死ぬという、この動かしがたい重くて苦しい現実を、神は、全くひっくり返してしまわれたということです。

私たちも復活する

 15章で問題として語られていることはキリストがよみがえられたことだけではなく、「死者の復活」の問題、すなわち私たちも、やがてよみがえるという驚くべき真理についてです。4節の「よみがえられた」、12節以降の「復活された」という言葉は、原語では同じ言葉で、しかも受け身形で表現されています。日本語の場合、尊敬語も受動態も「〜られた」「〜された」と同じなので、ここではその区別がつきません。でも、聖書の言葉は受動です。つまり、父なる神によって、キリストは復活させられた、起き上がらされた、のです。ですから、ここでのポイントは、キリストが父なる神によって復活させられた、のであれば、キリストにつながる私たちも同様に、父なる神によって、復活させられるということです。
 私たちは死んだら、主のみもとに行くことになります。そういう意味での死後のいのちを私たちは受けています。でも、それは神学的に言えば、中間状態のことです。それですべてが終わりではないのです。その後、私たちは新しいからだをもってよみがえる時が来るのです。ですから、N.T.ライトという新約学者は、この復活のことを、life after life after death(死後のいのちの後のいのち)と呼びました。新約聖書が多く語っている希望は、人の死後のいのち以上に、この「死後のいのちの後のいのち」である復活についてです。
 これから、詳しく見ていくことになりますが、復活者であるキリストを信じるあなたがたも、復活者として生きなさい、やがて復活する者として生活せよ、とパウロは述べているのです。ギリシア的な二元論的生き方を捨てて、福音によって統合された生き方、復活者として歩むように命じています。