「復活はいつ起こるのか?」

コリント人への手紙 第一 15:20ー34

礼拝メッセージ 2017.1.8 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,死者の復活は、キリストの再臨のときに起こります

キリストは初穂として復活されました

 ハレルヤコーラスで有名なヘンデルの「メサイア」の第三部で、このコリント書15章の20〜22節等が歌われています。この箇所は、キリストの復活の意味するところを明確に語っています。目に留まるのは、「初穂」(20,23節)という言葉です。初穂というのは、その年最初に実り、収穫した穀物や果実(First Fruits)です。イスラエルでは、初穂の供え物の規定があり、たとえば、過越の祭りの安息日の翌日、大麦の初穂の束を祭壇に捧げました(レビ23:15−17)。それから刈り入れを始めたのです。つまり、「初穂」ということは、すべての始まりであり、その後に豊かな収穫、実りが続くということです。キリストの復活は、死者たちの復活の先頭を切るものでした。その後に続いて「キリストに属している者」が復活するのです。私たちもそしてすでにキリストにあって眠った方々(召天された兄姉)も、やがて復活するとパウロは宣言します。
 パウロが他の手紙でもしているように、ここでは二人の代表的な人類、「人間」を並べて解説しています。一人は最初に造られた人間「アダム」(22節)です。そしてもう一人は「キリスト」です。聖書は、最初の書である創世記において、人間の創造と罪の堕落を述べています。コリント教会の人たちも、そのことを教えられていました。人間の始まりは、アダムからスタートしたことを。そしてそのアダムの中に罪が入り、死が生じて、現在に至るすべての人にそれが広がったという真理です。私たちが人間であるかぎり、このアダムの定めを背負っています。それが死です。22節「アダムにあってすべての人が死んでいる」のです。ところが、キリストに属するならば、誰でもこのキリストの復活のいのちにあずかることができるのです。

復活はこの世界と死とを完全征服します

 では、その復活のタイミングについて、聖書はどう語っているでしょうか。23節以降にそれが明らかにされています。「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」一つの節の中に長大な時間、歳月が織り込まれています。それはキリストの復活から、キリストの再臨まで、という期間です。当時のコリントの人々同様、私たちもこの決定的な二つの時間の狭間に生かされています。今、私たちは復活している訳ではありませんが、主キリストが再び到来されるとき、それがいつかはわかりませんが、必ずよみがえることになるのです。
 23節「おのおのにその順番があります」と「順番」となっていますが、この語は、軍隊用語として使われていたそうです。軍隊の秩序、整列、規律、進軍計画等での「順序」です。この後の表現にも、「支配」「滅ぼす」「敵」「従わせる」等の、いかにも軍事行動的なイメージで語られています。
 23〜28節は、終末において、神が御子キリストを通して、すべての敵を打ち滅ぼして、この世界を支配し、最終的には、その国を父なる神にお返しになるという、壮大な宇宙的規模の神のご計画が記されています。「すべて」という言葉が繰り返し使われていますように、それは蟻の子一匹残さない徹底した完全制服であるということです。復活の文脈で見れば、そのクライマックスは何と言っても、「最後の敵である死」を滅ぼすことにあります。神は、キリストの復活を通して、最も凶暴で、最も大きな力を持った敵、死を攻略なさるのです。


2,死者の復活は、正しく生きることの基盤となります

死者の復活が、信仰による行為の根拠となります

 復活を信じるということは、あるいは信じていないのならば、今の私たちに、そのことがどういう影響を与えているのか、生き方全体にどう響いてくるのかを、29〜34節は明らかにしています。29節の「死者のゆえのバプテスマ」については、いくつもの説や解釈があり、今もこの言葉が何を意味していたのかはわかっていません。主要な見解の一つは、主を信じてはいたが、バプテスマを受ける前に何かの理由で死んでしまった人のために、その人の近親のクリスチャンが代理で洗礼を受けたという考えです。ただ、代理洗礼という考え方そのものは、聖書全体から見るとそぐわないあり方なので、疑問が残ります。
 しかしいずれにしても、信仰による行為であるバプテスマ(洗礼)の中心は、キリストの十字架と復活とに、その人が結び合わされる象徴ですから、もし死者の復活がないのであれば、バプテスマそれ自身が無意味になってしまうということは確かです。バプテスマは一つの例として挙げられていますから、他の信仰による礼典や実践も、同じように、その根拠や目的を失ってしまうことになります。

死者の復活が、信仰の苦難に意味を与えます

 とても興味深いことに、31節でパウロは「私にとって、毎日が死の連続です」と言っています。直訳すると「日々私は死んでいます」(文語訳「我は日々に死す」)となっています。ところが同じような言い方で、32節には「明日は死ぬのだ」という言葉もあります。どちらも「死ぬ」と語るところは同じですが、その生き方は全く正反対です。日々に死す、と語るパウロは、その宣教の中で「危険にさらされ」「獣と戦う」ような、死と隣り合わせの毎日です。ですが、なぜそのようであっても平気でいられるのか、正しい生活を送れるのか、と言えば、復活があるからです。究極の逆説かもしれませんが、復活を信じているから、日々に死ねるのです。逆に、明日は死ぬのだから、と言って、飲んだり食べたりすることによる享楽的な生き方をしたり、快楽主義に走る人たちは、明日に希望を持てないので、今日という一日一日をしっかりと生き抜くことも、そして死ぬこともできないのです。

惑わされるな、正気であれ、罪を犯すな

 33〜34節では命令文が続きます。「思い違いをしてはいけません」(別訳;惑わされるな)、「目をさまして、正しい生活を送り」(直訳;醒めて正気であれ)、「罪をやめなさい」の3つです。これらの戒めの言葉は、まとめるならば、復活を信じないこの世に欺かれるな、ということでしょう。死者の復活を信じて生きることは、私たちを正しい生き方に常に導く根本となるのです。