詩篇 4:1-8
礼拝メッセージ 2017.1.22 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
1節 詩の主題がこの節から始まります。正しい神とは何でしょうか?呼びかけるときに応える神。困難なときに助ける神。恵みを施す神。祈りを聞く神。詩篇作者にとって味方となる神です。
2節 神への信頼を告白する詩篇著者に対して,敵となる者が存在します。「人の子」が具体的に誰を指すのか分かりません。一般的な意味での人間を指す場合もありますし,権力者を指す場合もあります。敵対者たちは詩篇著者の尊厳を繰り返し壊します。
3節 命令が5節まで続きます。誰に対しての命令なのか明示されていません。文脈からみれば,やはり敵対者への言葉でしょう。主(神ヤハウェ)への信頼を否定しそれゆえ主を軽視する者があっても,彼らが知るべきは,主は主を信じる者を見分けて,呼び求める者の声を主は聴いている,ということです。正しい神はご自身へ信頼する者に,応答するのです。それは報酬ではなく、関係を築くことです。
4節 「恐れおののく」は,震えるという言葉が使われていて,怒りに震えるという意味もあります。怒っても罪を犯すなと命じられ、よく考える事を勧めています。
5節 正しいささげ物がささげられるべきです。これは,ただ単に宗教的な儀式を正しく行うことが勧められているのではなく,神との関係を正すべきことが意図されています。主への信頼とは,1節の言葉が敵対者にも実現する事を望む言葉です。
6節 良いものを見ることが出来ない,つまり良いことが経験できないと多くの人々が歎いている様子が語られます。良いこととは,人が自分勝手に,ただ自分の欲望を一方的に満たそうとする事を指しているのではありません。本当に人が人として生きていける喜び,それを良いこととして人々は求めています。
7節 収穫は大きな喜びであり,神の働きの証しです。しかしそれ以上の喜びを与えてくれるように主(ヤハウェ)に願い出ています。
8節 人々からの屈辱的な言葉や態度から逃れることができます。苦難から解放してくれます。それは人々が侮っている主(ヤハウェ)そのものから来る事を詩篇著者は確認しています。
正しさ:苦しむ者への救済
詩篇著者は神を信頼しているが故に,侮りを受けています。詩篇著者の現実は,敵対者との関係において非常に苦しさに満ちていることが吐露されています。彼らの方が栄華を極めているかもしれません。自分を侮辱する余裕さえ見せています。でも,敵対者が経験していることには神はいないと詩篇著者は考えているのです。自分よりも力を持つ敵対者の方が滅びに向かっているとしています。それは,彼らは神と出会っていないからです。大切なことは、そのような者に向かって,罪を犯さず,考え,沈黙を守り,正しいささげ物をし,その神である主に拠り頼む事を勧めていることです。主を軽視して否定する者に,神との真実な出会い,本当の神経験を促しています。
詩篇著者にとっての神経験とは,祈りに応える神であり,苦しみから解き放つ神であり,平和を与える神であり,喜びを与える神です。苦しい者が解放を経験し,人間らしく生きること,自分に生きる価値を見出すこと,神と出会い,祈りに対する神の応答を聞き,神の救済の業を経験することです。そのような救済の神がなぜ義の神と呼ばれているのでしょうか? 何ゆえに正しい神なのでしょうか? 人が不当な苦しみから逃れて,人としての在り方を回復することは,聖書からすれば当たり前です。その当たり前の事を行なわない,あるいは自分の利益のために破壊している人間に正しさはありません。平等の名の下に苦しみが放置されることも多いでしょう。逆に,当たり前の事を行なおうとする神は正しいのです。苦しむ者が多くの援助を得ることは,その人が回復することにおいて正しい、あるいは公平というのが聖書の主張です。このような公平に対する考えはイエスの様々な物語や、イエスが語った譬にも登場します。
神が正義ならば,何ゆえにこの世に多くの苦しみや不公平があるのかと問いたくなります。しかし,聖書はそれに対して明確回答を与えていません。聖書は,そのような不正義や不公平があるからこそ,正しい神の働きが必要であると述べるのです。私たちの神はそのような意味では,現実主義者と言えましょう。
神を私たちの要求を実現するための道具にしないように。それを救いと勘違いしないように。人間を人間として扱う当たり前の業を神がしてくださるように,そこに私たちが真の救いを見出すことができるように,その業を神との出会いとして私たちが理解できるように。