「キリストは舟の中にいる」

マタイの福音書 8:23ー27

礼拝メッセージ 2017.1.29 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,人は揺さぶられ、危険を感じるときに、自らが頼りなく弱い存在であることに気づきます

安全であるとの思い込み

 舟が嵐に遭遇し、乗船者たちが危険な目にあうという話は、聖書の中にいくつかあります(ヨナの話や、パウロが乗った船が暴風雨に遭う話など)。これらの話は、出来事として、確かに起こったことなのですが、同時にその話の中に、さまざまな真理や教えを伝えています。新聖歌にも「人生の海のあらしに」という歌があるように、舟での移動や旅は、しばしば私たちの人生の歩みの危険や不安定さを想起させるものでした。
 23節を見ると、イエスが舟に乗り込まれ、それに従って弟子たちが舟に乗ったことが記されています。弟子たちは、この出来事に来るまでの期間、イエスとともに過ごして、彼から教えを受け、学び、そして素晴らしい御業を見聞してきました。そういう意味では、イエスのあとについて行くことに安全を感じていたと思います。危険の少ない安心できる道を彼らは進んでいると、意識的ではないとしても、そんな感覚を持っていたことでしょう。
 私たちの歩みも、誰でも、こうしておけば安全である、この道は確かであるとの判断をもって、選択した道を進んでいることが多いでしょう。ところが、24節にあるように、予期していなかったことが起こることもあるのです。「すると、見よ」と書いています。意訳して「突然」と訳している翻訳もあります。イエスと一緒の舟でまさかこんな危険な目にあうことはないだろうと弟子たちは思っていました。ところが、大暴風は彼らの思いに反して突然起こり、容赦なく彼らに襲いかかりました。

人は何かによって揺さぶられて、真の自己を知ります

 新改訳聖書の「大暴風」には脚注があり、直訳が「震動」であると書いています。元々、この語は地震などで、足もとから揺さぶられるようなことを表す言葉です。湖面が波打ち、舟が揺さぶられるのは、猛烈な風が吹いていたからでしょう。地震が頻繁で甚大な被害を受けて来ている私たちにとって、誰もが揺れるということの恐ろしさを実感していると思います。
 24節の続きには「舟は大波をかぶった」と書いています。それは、舟が大きな波を幾度もかぶって、その波に覆われて舟が見えなくなる状態を指しています。十人以上の人が乗り込める舟といっても、おそらくそんなに大きなものではなく、波に覆われるような状態が続いていくと、やはり沈んでしまいます。25節で弟子たちは「私たちはおぼれそうです」と言っていますが、これも直接には「私たちは滅びる」と断言していて、限界を超えた危険に対するストレートな叫びです。「もう終わりです!みんな沈みます!」という感じでしょう。
 しかも頼りにしているイエスは眠っておられるのです。イエスはそこにおられても、彼らの目には、イエスはおられないのと同様に思えました。神不在、神の沈黙です。舟は揺れて、波をかぶり続け、今にも沈むような舟の中で、弟子たちはパニックに陥りました。でも、はっきりわかることは、ここに彼らの真の姿が暴かれたということです。最大のピンチを迎えた時、彼らは、「信仰の薄い者」であることが明らかにされたのです。イエスと一緒にいるはずなのに、いつの間にか「信仰のない航海」になっていました。弟子たちは、不安に満たされ、希望を失い、恐れにとりつかれた人間となりました。そこに、頼りなく弱い、力のない存在であることを思い知らされる結果となりました。でも、そのような現実が明らかにされることによって、彼らは本当の意味で、「イエスのみもとに」(25節)、来ることができたのです。


2,人が恐れの中でできる最善のことは主を呼び求めることです

恐れに支配されてはならない

 弟子たちが恐れにとりつかれたことは明白ですが、人間は弱い存在なのだから、仕方がないと、自分を振り返ってみても、そう感じてしまいます。でも、イエスが繰り返し、このような場面で戒められたように、私たちは、恐れることがあっても、恐れ続けてはならないのです。恐れをストップしなければなりません。恐れによって、人間は神に信頼する気持ちを失い、神に導かれるのではなく、恐れにコントロールされてしまいます。恐れが罪を生じさせ、恐れが人を滅ぼすのです。

「主よ。助けてください。」という祈り

 弟子たちは恐れるべきでなかったかもしれませんが、彼らが恐れに満たされたとき、彼らのとった行動は間違ってはいませんでした。彼らは、イエスのところへ行き、イエスに向かって、「主よ。助けてください」と言ったのです。この「主よ。助けてください」という短い祈りが、最も大切な祈りであると思います。経験上、私が今までの歩みの中で、もっとも主に聞いていただいた祈りは、「主よ。助けてください」でした。特に、この「主」という言葉が大事です。「主」とは主人、主君、力あるお方、権威を持った王様という意味です。風も荒波も静めることができる方、自然界を支配し、世界を治められるお方であることが、この短い「主」という言葉に込められています。


3,人が知り得る最善のことは主がどんなお方であるのかを知ることです

 この出来事の結びが27節にあります。「人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」。他の並行記事と比較して、違っていることは、27節の「人々」です。なぜ、「弟子たち」あるいは「彼ら」としないで、「人々」になっているのでしょうか。この「人々」が弟子でないということは、弟子からそのことを聞いた他の人たちにも、主に対する興味や関心、探究心が与えられたということではないか、と思います。つまり、イエスというお方の力、偉大さを経験することは、その経験者だけにとどまらず、別の人々にも広がっていくのです。証しによる広がりです。「この方はどういう方なのだろう。」と、私たちの真の導き手である方の偉大さを経験し、神とはこういう方だったのか、と少しずつ理解していくとき、私たちの信仰が成長していきます。そして、いつも忘れてはならないことは、私たちの乗っている人生の舟にはイエスがおられるということです。キリストは舟の中におられるのです。