「造り主を忘れた人間の現実①」

ローマ人への手紙 1:18ー25

礼拝メッセージ 2017.3.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神は、造り主です

神が造り主であるとの信仰(パラダイム転換)

 聖書を読み、教会に来て、信仰のことを知っていく中で、大きな衝撃を感じた真理は、私にとって神が創造主であるという信仰でした。人間の空想力が神を生み出したのではなく、確かに存在しておられる生ける神が、この世界と人間を造ったというのが、聖書が語っていることです。20節「創造」「被造物」、25節「造り主」という表現があるように、18節から出て来る内容は、創造と人間の罪であると私は思います。福音を語るとき、神の創造ということをベースに語る必要があることを、この聖書箇所は明らかにしています。
 神がすべてのものを造られ、私たちは被造物であるとの確信は、日本に住む多くの人たちにとって、実際にはなかなか受け入れるのに時間がかかることだと思います。そんなふうに聞いたり、学ぶ機会がなかったからです。しかし、造り主として神の存在を知り、受け入れることができると、聖書が語っていることの意味が本当によくわかるようになります。

造り主を信じることは全生活に影響を及ぼす

 以前、宣教師の子息で、現在、ビジネスで活躍されている方と用事でお話する機会がありました。この方はアメリカ人でありながら、日本で生まれ育たれたこともあり、日本の人たちの思考のあり方をよくわかっておられるようでした。彼が言われるのには、日本人は、コンパートメントな思考回路を持っているということです。列車の区切られた客室のように、コンパートメントというのは、仕切りや区画に分けるという意味です。いろいろな考えや感情も、これはここ、あれはあちらに、と区切れるというのです。だから、狭い家屋の空間でも、薄っぺらな障子の戸一つ隔てているだけで生活の切り替えができるというのです。確かにそうかもしれません。その話で思ったのは、たとえば、キリスト教の教えや聖書の言葉は心の一つのコンパートメントにしまっておき、別のコンパートメントには他の考えや生活のあり方をしまって、自分の中で矛盾を感じないで過ごしてしまう傾向があるような気がしました。
 創造主の理解も、聖書にはそう書いているので心の一部屋にそれだけ押し込めて、知的な理解でとどめてしまう場合があります。創造主がおられるということを認めながら、同時にそんな考えが存在しないかのように、私たちは生きられるのかもしれません。でも、創造主の神理解は、本当のところそういうあり方を許さず、私たちのすべて、その人生の全領域を、また全思考を神の御前に完全に一元化しないではおかないような教えであると思います。

造り主から離れてしまった世界

 多くの場合、この世界にある不幸、悲惨な現実を見て、こう考えるのではないかと思います。全能の神がいるなら、なぜこんな不幸が起こる世界を造ったのか、正しい神がおられるなら、こんな不正を許されるはずはないと言って、神が存在しないことの理由にしてしまいます。しかし、パウロのここでの説明は、むしろその逆です。創造主である神から離れ、忘れ、背を向けたのは、人間のほうであり、人間の不敬虔や不義によって、この世界は、堕落し、悪くなってしまったのです。


2,神の怒りが啓示されています

神の怒り

 ですから、神はその義をもって救いの道を備えておられますが、同時に神の怒りが啓示されていると聖書は語ります。私たちのこの世界は、神の御怒りの前にあるということです。意外に思われるでしょう。神の恵みや、神の愛が啓示されているなら、わかりますが、神の怒りが啓示されているとは、いったいどういうことでしょうか。もちろん、人間の持つ怒りの感情は不完全なものです。正しいことが行われずに腹を立てることもあるでしょうが、多くの場合、純粋に義憤であるようなことはあまりなく、自分が軽んじられているとか、損をしてしまうとか、恥を受けたとか等の自分勝手な隠れた動機が、怒りの原因となっているものです。しかし、神の場合は、全くそうではありません。神の怒りは常に正しく、神が聖なるお方であるゆえに、正当な怒りを持たれるのです。(ヨハネの黙示録では、神の御怒りの出来事が多く述べられています。)

神の怒りが啓示されている理由

 神の怒りが啓示されている理由が二つ述べられています。一つは、人間が神の栄光を滅ぶべきものに変えてしまっていることです。つまり、偶像礼拝をしているからです。人間は神ならぬものを神にしたいのです。あるいは自分を神の位置に置きたいという思いを持っています。なぜなら義なる神に従うよりも自分の願望を満たしたいと思っているからです。
 二つ目のことは、人間が神の真理を偽りと取り代えてしまっているからです。人間は真理を喜びません。むしろ、都合が悪いのでそれを無視したり、隠してしまいたいと願っているのです(参照;ヨハネ3:19〜21)。ところが、聖書の語る真理を知っている人が多いとは思えない日本の場合では、何が真理であるのかが、わかりにくくなっていると思います。素晴らしい講解説教の著書を残された奥村修武牧師の本に書いてありましたが、百匹の羊の群れから一匹の羊が迷い出て、羊飼いが見つけ出すというイエスのたとえがありますが、日本の場合は、一匹が迷うのではなく、反対に九十九匹が迷い出ており、どちらが迷い出た羊であるのか、ともすると、わからなくなってしまいます。でも、真理は真理であり、数の多い少ないではありません。
 ローマ書のここに描写されている、造り主を忘れた人間の現実、その悲しむべき状況は、確かに現在も続いています。かつてフランシス・シェーファーが、エゼキエル書33:10を引用して「私たちはいかに生きるべきか」(欽定訳から、How should we then live?)と現代世界に投げかけたことを思います。造り主なる神を認めて信頼し、ほめたたえましょう。そしてその仰せになることに聴き従うという真の幸いを、求めて歩みましょう。