「造り主を忘れた人間の現実②」

ローマ人への手紙 1:26ー32

礼拝メッセージ 2017.4.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神を知ることは、自分を知ることにつながっています

 1章18節以降から章の終わりまで、現代の読者を当惑させるようなきつい言葉が並んでいるように思います。罪を指摘されたり、糾弾されているような印象を受けるかもしれません。29節からの、「〜する者」が続くところは、悪徳表と呼ばれています。
 けれども、誤解を恐れずに言えば、これらの聖書箇所でさえも、実は、福音の説明であると私は思います。というのは、パウロは、ここで当時の人たちの個々の罪を指摘して、正しい人になれ、と勧めているのではないからです。何よりも、パウロは福音を伝えたかったのです。「私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」(15節)と言って、その福音を解き明かしていくのです。その福音を語るため、神が造り主であるところから語り、続いて人間の罪ある現実を示すのです。
 ジャン・カルヴァンは、神を知ること(神認識)と、自分を知ること(自己認識)がつながっていることを『キリスト教綱要』の最初で明らかにしていますが、神を知り、福音を知ることは、自分、そして人間全体の状況を知ることでもあるのです。パウロは、人間の現実は、造り主である神から背を向け、離れた存在となって、暗くて、空しく、価値の逆転してしまった有様になっていると指摘しているのです。造り主から離れた人間が陥った姿を、偶像崇拝(24〜25節)、秩序の転倒(26〜27節)、悪の諸形態(28〜32節)として示し、描いています。


2,人間の罪ある現実の姿を考えましょう

偶像礼拝=造り主でないものを中心に生きている(24−25節)

 聖書の中で繰り返し出て来る人間の罪の姿は、神ならぬ偶像を礼拝することです。旧約聖書を読むと、神の民イスラエルが、しばしば陥った罪や堕落の原因は、偶像崇拝であったことを知ることができます。でも、それはイスラエルに限ったことではありません。どの国の歴史を見ても、人間が造ったものの多くは偶像とそれに関連するものであったと言っても良いと思います。
 人は、造り主の存在を忘れて、神でないものを神として、それを中心に生きて来たのです。偶像のかたちは様々で、神々の像もありますが、聖書は、自己の欲望がその根底にあることを明らかにしています(ピリピ3:19「彼らの神は彼らの欲望であり…」、コロサイ3:5「むさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」)。

秩序の転倒=造り主の定めた秩序を歪めて生きている(26−27節)

 24〜27節に記されている、性の問題は、多くの難しい議論を含む箇所です。現代、それらの問題は、個人が選択する生き方の問題として、議論されています。しかし、ここでパウロが語っていることは、もっと広い人類全般についての問題です。「自然の用」とか「不自然なもの」という語(26〜27節)は、創造の秩序という神の定めのことであると理解できます。人間の現実を見ると、造り主の定められた創造の秩序が、明らかに逆転してしまっている、倒錯している状態であると、パウロは感じていました。造り主の意図したことが、歪められ、逆さまの状態になっているという暗い現実を、現代の私たちも、性の問題ばかりか、多くの事柄の中に見ているのではないでしょうか。

悪の諸形態=造り主を認識の深いところで認めずに生きている(28−32節)

 29節から31節には、単純に数えて21の悪徳者リストがあります。悪徳リストの罪の表れ方も学ぶべきものがありますが、特に注目したいのは、28節です。「彼らが神を知ろうとしたがらない」と訳されている文章ですが、直接的に表現すると「認識の深い部分で神を持つこと」の否定です。人間の心(理性)の奥深いところで、神を神とする、造り主を認識して生きることなのです。でも、多くの人はそれを良しとしなかった。それを価値あることと見なさなかったと聖書は語ります。
 聖書を読むと、神が人間をさばきますが、私たち人間の心は、その逆で、神を受け入れることは、良いことなのかどうかと理性で神を判断し、さばくのです。損か得か、益になるか邪魔になるか、などと考え、心の中で神を受け止めることをやめたり、あきらめたりするのです。しかし、聖書のメッセージをよく聞いていただきたいと思います。人間のこの空しく暗い現実は、造り主を否定することに端を発しているということなのです。

なすがままに捨て置かれるというさばき(24,26,28節)

 昔のある説教者が「神は罪人を地獄にではなく、罪に引き渡した」と表現したと言いましたが、「引渡されました」(24,26,28節)と繰り返されている言葉は、たいへん重い言葉であると思います。2章からは、神のさばきということが出て来ますが、ここでは神は罪を行う人間を懲らしめたり、さばくと言わず、「引き渡した」と書いています。引き渡した先は「汚れ」「情欲」「良くない思い」という罪の中へです。罪を行う人自身は、自分は自分の望むことを思いのまま行っているような気になっていますが、実際は罪の中に捨て置かれているというのです。罪はそれ自体の中にさばきが含まれています。


3,福音が、造り主を認めて生きる道に戻してくれます(25節)

 トマス・アクィナスは『神学大全』など、膨大な数の書物を著した人でしたが、「神」という言葉を書くときは、筆を休めて賛美したと言われています。パウロも、これら暗い人間の現実を描きつつも、「造り主」という言葉を記した時、賛美せずにはおれなかったのでしょう。「造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン」と、賛美を記しました。
 神を神として生きることは、人間の生活全般に関わり、現れるものであると思いますが、25節で言われている一つの示唆は、賛美のある生活です。賛美をする心の余裕がないと思う方もあるかもしれません。でも、造り主を認める生き方は、実は、楽しく、活き活きしたものをその人のうちに与えると思います。造り主を認めることで、自分が被造物であることを知り、この方に全面的に信頼して生きることができます。まるで自分がすべてであるかのように思って、思い煩いを抱く必要はないからです。積極的かつ主体的であるものの、導かれて生きることができるのです。