「心の割礼」

ローマ人への手紙 2:17ー29

礼拝メッセージ 2017.4.23 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,間違った安心感に対して警告する

伝統への信頼という間違った安心感に警戒しましょう(17a節)

 福音を語るパウロは、創造主から離れた人間の罪について連綿と記し続けます。17節からは、ユダヤ人の罪が全面的に取り上げられます。この手紙がローマの教会に宛てられたものであるのに、なぜユダヤ人のことを語るのか不思議に感じます。パウロ自身がユダヤ人だったからでしょうか。あるいは、ローマにも多くのユダヤ人がいたからでしょうか。おそらく、ユダヤ人のことをここで語ったのは、やはりすべての人に共通する信仰の問題を明らかにすることにあったからだったと思います。17節に「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、…」とあるように、当時、ユダヤ人は、ある意味、自信を持ち、民族としての誇りを持っていました。われわれは異邦人たちとは全く違う存在であり、神に選ばれ、律法を与えられた者たちだとの自負がありました。
 それはそれで正しい認識であったかもしれませんが、福音に耳を傾け、イエスを信じて従うことがなければ、真の祝福はありません。自分に自信を持ち、誇りを持っている人は、福音を受け入れることが難しいのです。なぜなら、自分が正しいと思い込み、神の前にへりくだることができないからです。聖書の言葉が明確に示していることは「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」ないということです(ローマ3:23)。そして「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(3:24)。

信仰の知識への信頼という間違った安心感に警戒しましょう(17b−24節)

 17節から24節で、一番強調されていることは、彼らが「律法を持つことに安んじ」ていたことです。この書全体を通じて、律法それ自体は否定されていません。律法は、神の御心を教えているすばらしいものです。しかし、もし律法を持っているだけならば、それがいったい何であるのかとパウロは言うのです。19−20節にあるように、当時のユダヤ人は自分自身を「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師」と思っていました。そのような自己理解を持ちながら、彼らは律法を実践せず、教えていることと実際の生活が分離していました。
 この聖書箇所を読んでいると、信仰の知識があること、この世にあって自分が案内人、導き手として立てられている点で、ここで糾弾されているユダヤ人とは、まさにクリスチャンたちのことではないのかと感じます。ある注解書の訳では、新改訳で「あなた」となっているところを「お前は」と訳していました。「お前が…」「お前は…」と続いて語られている言葉から「お前は他人を教えながら自分自身を教えないのか」、と胸ぐらをつかまれて怒られているように聞こえました。クリスチャンであっても、信仰の知識を持っていることに間違った安心を抱き、知識のない人たちを見下し、さばいているならば、彼らと同じ過ちの中にいることになります。

儀式に信頼するという間違った安心感に警戒しましょう(25−29節)

 25節からは「割礼」について述べられています。割礼とは、生後しばらくして、男子生殖器の包皮を切除する儀式です。割礼を受けているかどうかは、ユダヤ人にとって重要なことでした。これも律法を持っていることと並んで、われわれは割礼を受けている者だ、無割礼の者たちとは違うという誇りとなっていました。
 ある英国の聖書学者は、この箇所の説明に製品偽装の問題を語っています。私たちが何かを買う時、ラベル表示を見、ブランドを確かめます。そしてその店や、メーカーへの信頼を持って購入します。日本でも、一時期、食品偽装問題が大きく取り上げられました。表示してあるブランドやラベルの表示と、中身が違っていたとしたら、それは偽装であり、問題となります。外見上、割礼といううしるしがあるのに、その中身が律法の違反者であるなら、その割礼は無効であるとパウロは言います。
 信仰の儀式や事柄に、ある人たちは保証や安全を見出そうとします。ここで聖書は私たちの信仰をその根本から問い直しているのではないでしょうか。私たちが信頼を置くべきは、また誇りとするのはイエスの十字架だけです。「割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。…しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:13−14)。


2,自分の信仰の心を問い直そう(28−29節)

 29節「文字ではなく」というのは、律法の一つ一つの文字や言葉のことでしょう。もちろん、パウロは聖書の言葉を否定しているのではありません。それを学んで理解することはどうしても必要なことです。でも、当時のユダヤ人がしたように、文字に固執して、そこに書いてある表面的な意味をルール化し、これは正しい、これは罪、というようにしている彼らのあり方に対して、それは間違っていると言ったのです。「割礼を受けていない人が律法の規定を守る」(26、27節)というのは、ユダヤ人でなくても、律法の精神に沿った生き方をしている人がいるとの指摘です。21−22節にあるように、たとえば「盗むな」というのは、実際に泥棒をしなければ良い、警察につかまらなければ、その律法をクリアしていると考えているとしたら、それは表面的な理解でしかありません。神がなぜ人間に「盗むな」と言われたのかを考えず、神の御心を読み取ろうとしないところに問題があるのです。正か否かの判定で安心すべきものではないのです。
 「心の割礼」という表現を考えると、肉体の割礼は外見的なことです。でも、心というものは人に示したり、自分で見て確認することはできません。だから、パウロは隠れていると言いました。「人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人」(29節)であると。人目には隠れていますが、決して神の目から隠れてはいません。神にはあらわにされています。「隠れたユダヤ人」、「隠れたクリスチャン」とは心に割礼を受けている人のことです。心に律法が刻まれているのです。そういう人に対して、他人はそのことを知りませんから、ほめることもせず、賞賛を与えることもないでしょう。しかし、その人の真の価値は神がお認めになります。「その誉れは、人からではなく、神から来るのです」(29節)。