ローマ人への手紙 3:1ー20
礼拝メッセージ 2017.5.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神は真実な方であると言えますか(1−8節)
問いと答えという表現について
1〜8節は、問いと答えのやりとりで表現されています。奇数節が質問で、偶数節が回答になっています。解説等によれば、このような疑問や反論を投げかけてくるユダヤ人たちや、いろいろな考えを持つ論敵の存在を意識して、パウロはこのような書き方をしたというようなことを述べていました。
でも、繰り返し、この聖書箇所を読みながら思いましたことは、この文章の中にパウロ自身の魂の格闘というか、神は本当に真実な方であると言い切れるのかという真剣な神との向き合いがあったのではないかと思わせられました。旧約聖書のヨブ記の中で、苦しみの中にいるヨブが友人たちとの論争の中で、もがきつつ戦っている姿と重なって見えました。
神は真実な方であることへの質問
それでは、内容を見ていきましょう。最初の問いは、ユダヤ人のすぐれたところは何か、です。2章で、彼らが律法を与えられ、割礼を受けている、神の選びの民としての誇りを、パウロは打ち砕くかのような言葉で論じました。律法を持っていても実践していなければ無意味であるし、割礼も外見の問題ではなく、心が伴っていなければ何にもならないと、言ったのです。それでは、神の救いの歴史において、ユダヤ人にはどんな優越があるのですかという問いです。それに対して、これが大いにあるし、何よりも神の御言葉を与えられている点にあると回答しています。
第二の問いは、でもユダヤ人すべてが神の民として真実に生きて歩んだのではないとすると、神の真実はいったいどうなるのかという疑問です。これは、クリスチャンに置き換えてみると、よくある否定的な質問内容によく似ています。キリスト教を信じてきた人々やキリスト教国家と呼ばれるような国々の過去の歴史においての誤りや、失敗を指摘して、だからキリスト教は信じられないというようなことです。
しかし、パウロが言うように、決して真実な神を信じてきた人たちの罪や失敗があったとしても、それによって神の真実性はいささかも変わることがないし、それによって創造主である神を認めないことの言いわけにはならないのです。しかも、パウロは詩篇51篇を引用して、だからこそ、この世界の終末において、神は必ず正しいさばきを行われることを明言します。今は終局のさばきの猶予期間であるということです。
第三と第四の問答は、重なり合う内容です。人間の罪や過ちが、むしろ神の正しさを明らかにするとしたら、それに対して怒りを下す神は不当ではないですか、あるいは、神の真実や善を表すために、もっと悪を行おうということにならないのですか、という疑問です。これはやはり屁理屈と言わざるをえないように思います。でも、そうした自分勝手な理屈や言いわけで、人間は自分の罪を正当化したり、あるいは神を信じない口実にする傾向があります。パウロの答えは、神は正しく世をさばかれ、人間は自分の行った罪の責任を問われるということでした。
2,自分は正しい者であると言えますか(9−20節)
「義人はいない。ひとりもいない」
神は真実な方であるとの議論に続いて、語られていることは、すべての人間は罪の下にあることです。1〜8節の内容は、哲学者ライプニッツが言った「神義論」ということを思い起こさせます。全能の善なる神がおられるのに、この世界に悪が存在するのはなぜかということを考える議論です。この「神義論」は、神が人間をさばくのではなく、人間が神は公正かどうかと言って、その知性や理性で神をさばいて、神を被告席に立たせているのではないかと言われてきました。神は真実な方であるとの問いを持ちだしていくこと自体、確かに自分自身があたかも正しい者であるかのように考えてしまっていると思います。パウロがここで、明言しているは、すべての人間が罪の下にあり、全員が罪ある存在だということです。「義人はいない。ひとりもいない」のです。「〜の者は、いない」と旧約聖書を引用し、何度も述べて、これでもあなたはまだわかりませんか、と畳み掛けてきます。
罪の諸相
この9節や11節の「すべての人」の中に、私も入っており、皆様も含まれております。でも、ある人は思うかもしれない。いや、正しい人は、多くはなくても、少しはいるのではないだろうか。歴史上の人物にも立派な人はいたことがわかっていると。それで、パウロは13節以降も旧約聖書をまた多く引用して、罪のさまざまなかたちを明らかにします。彼らの「のど」「舌」「くちびる」「口」と最初に、言葉による罪の姿を示します。言葉はすぐに消えてしまうもので、大した罪ではないと思いやすいですが、決してそうではありません。今日であれば、これらの「のど」「舌」「くちびる」に加えて、彼らのネットの書き込みやラインやチャットの言葉もそれに含まれるでしょう。また、口から出るのは悪口だけとは限らず、心にもないお世辞でさえも、それに含まれる、と高名な説教者がその中で記していました。そこには、「まむしの毒」「のろいと苦さ」が秘められているのです。15節以降では、「彼らの足」や「道」と書かれて、行為に関しての罪が指摘されています。
キリストのみわざを通しての神の義
1章後半から続く、ここまでの長い記述を通して、パウロが示していることは、創造主から離れた人間の絶望的な状態です。ユダヤ人も、ギリシア人も、どの国の人であっても、人間は誰でも、すべて罪の下に置かれているし、さばかれるべき存在であるということです。でも、その人間の絶望状況を認識しなければ、正しく福音を理解することはできないのです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(7:24)という彼自身の独白のように、また預言者イザヤが「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)という理解に立った時にはじめて、ローマ3:21〜22の「しかし、今は、…神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」のあふれる喜び、解放感、恵みに満ちた希望が味わえるのです。