ローマ人への手紙 3:21ー26
礼拝メッセージ 2017.5.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,「すべての人は、罪を犯した」(23節)
この21−26節は、聖書学者クランフィールドも言っていることですが、この書の「センター(中心)であり、ハート(心臓部)」であると言えますし、有名な注解者レオン・モリスも「かつて書かれたものの中で一番重要な段落である」と言っています。重要かつ本質が詰まった内容だけに、簡単に理解できない箇所です。
今まで学んできましたように、1章18節から3章20節の長い語りの中で、パウロが論じてきたことは、この23節にあるように「すべての人は、罪を犯した」ということでした。ユダヤ人であるか、異邦人であるかに関係なく、年齢も貧富も立場の違いも、男も女もありません。すべての人が、等しく、神の前に罪ある存在です。
誰でも、罪を犯しているあの人よりも、私は少しはましであるし、いくらか神に近いと思いがちです。でも、モール主教が言うように「不品行者、嘘つき、殺人者たちが、神の栄光から遠い存在であるように、あなたがも同じです。もしかすると、それらの人たちは、鉱山の奥底に立っているかもしれず、あなたがたはアルプスの頂上に立っているかもしれません。しかし明白なことは、あなたがたは、彼らと同じように、空の星に触れることはできないのです。」
私が教会に来始めた時、人間は皆、罪人であるという教えを聞いて、我が身を振り返り、道徳上の欠点や罪をいろいろと考えて、確かにそうだ、とその罪深さをおぼろげに感じていました。今回あらためて「すべての人は、罪を犯した」という言葉を見ていると、どちらかと言えば、希望が消え去ってしまった状態、闇の中にいて光を全く見出だせない人間の絶望を思いました。直接の文章には出て来ませんが、1章18節から3章20節で、この書は人間に対する楽観主義的、希望的観測といったものを、粉々に打ち砕いています。人間は、このように罪の下にあり、希望を抱くような余地は全くありません、と言い切っているのです。
2,「キリストによる贖いのゆえに、価なしに」(24節)
21節で「しかし、今は」(英語訳では、But now)と書かれています。この言葉が、一本の弓矢が突然、目の前に突き刺さるように、読者をハッとさせるのです。悲劇で虚しく幕を閉じるかのように見えたストーリーが、一瞬にして喜びの大逆転と変わるのです。バルトは、この「しかし、今」を「非時間的な時間、非空間的な場所、不可能な可能性」と書いて、あり得ないことが起こされたことの驚きを表現しています。
21節からの箇所は、「神の義」ということを軸にして説明されているので、一見、容易に理解し難い文章になっていますが、先に進んで24節を読むと、何が、神によって、そしてキリスト・イエスによってなされ、可能になったのかがわかります。絶望の中にあった人が希望と喜びの中へと大転換するのです。
24節は、「恵みによって」、「贖いのゆえに」、「価なしに」と3つの言葉で、神がしてくださったことの内容や方法が明らかにされています。まず「贖い」について考えましょう。「贖い」とは、代価を払って買う、買い戻すという意味で、身代金の支払いによる解放、救出を指します。このことを誰が私たちのためにしてくださったのか、それは神が、キリストの十字架と復活によって成し遂げてくださったのです。
他の「恵みにより」「価なしに」の言葉が表現していますように、そこには、私たち人間の側での働きかけや行為はありません。だから、恵みであり、「価なし」つまり、フリー、無料であるということなのです。人間が、これこれの徳を積んだから、こんな善行や修行を果たしたから、得られるというものではないのです。
しかし、こう思うかもしれません。いや、行いではないと言いながら、教会は「信仰、信仰」と言うではないか、と。でも、この聖書箇所を見ると、信じることは言われていますが、それは人間の側の「信仰」が強調されているのではありません。だから「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」と書いてあります。
前にも少し紹介しましたように、22節の「イエス・キリストを信じる信仰」という言葉は、直接的な言葉のままでは「イエス・キリストの信仰(あるいは忠実)」(the faithfulness of Jesus Christ)となっています。そうすると、ここは人間の側の信仰のことを言っているのではなくて、むしろ旧約聖書の歴史の中で、イスラエル民族が果たせなかった信仰の従順を、今や、イエス・キリストが忠実に成し遂げてくださったことであると理解できます。そうすると、私たちを救い、義とされるのは、人間の信仰の良し悪しではなく、徹頭徹尾、神の恵み、神の全面的なお働きによることが、より明らかに感じられます。私たちが付け加えるものは何もありません。
3,「それはご自身の義を現すためです」(25節)
しかし、この21から22節、そして25から26節で繰り返されている「神の義」についての説明は、そうした神の福音の内容や方法が、なぜ必要であったか、あるいは、それでも神は義、正しいお方であると言うことができるのかを説明しています。
なぜ、イエス・キリストなのか、なぜ十字架と復活なのか、ということです。詳細はこれからこの書でずっと語られていくことなので、今それらを詳しくお話ししませんが、もう一度、前回でも考えた点に戻って、整理してみます。神は、正しい、真実な方です。その神が、この世界を造られました。神が愛された世界でしたが、人間は、神に背いて、罪を犯し、堕落しました。
もし、この罪による堕落を、何の犠牲もなしに、見逃したり、救うことになれば、神の義や、真実はいったい、どうなるでしょう。この危機と破滅からの救済のため、神は、アブラハムをお選びになり、その子孫を通して、世界を救おうとなさいました。しかし、イスラエル民族は、神のご契約に対して忠実であることができず、その計画は頓挫したかに見えました。しかし、契約に忠実な神は、真のイスラエル、御子イエスを世に遣わして、この方の忠実なみわざ(十字架と復活)を通して、世界を罪から解放し、滅びから救いへと導かれました。そしてこのイエスを主として告白して信じる者たち、信仰の共同体である教会を建て上げられて来たのです。