「主を待ち望め」

詩篇 27

礼拝メッセージ 2017.5.21 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


神への信頼

 この詩篇の前半部は,詩篇著者の神への確信・信頼に満ち溢れています。詩篇著者の周りは敵だらけです。彼らは近づいて来て,詩篇著者の命を奪おうとするでしょう。戦争を仕掛けようともしているようでもあります。敵は個人的に対立している者ではなく,私・家族・国を滅ぼすことが出来るのかもしれません。そのような強い大きな敵ではあっても,詩篇著者はその敵を恐れはしないと言っています。それは彼が信じる神である主が詩篇著者を救うからです。その確信がある限り,恐れる必要はないのです。
 詩篇著者の願いは,主の家に住まうことです。もちろん比喩的な表現になっています。主の家は神殿や幕屋ということになりますが,そこに住むとは神の守りが常にあること,神の保護を経験することです。敵は強くとも,神である主は私を救い,敵からかくまいます。ついには敵に打ち勝ちます。それは6節の凱歌によって表わされています。


状況への失望

 このような神の救いを確信している者が,7節以下では絶望の声を上げています。全く対照的な言葉であり,心持であり,態度でしょうか? 前半では敵に対する勝利を確信しているのに,後半では神の臨在を繋ぎとめておくことで必死になっています。父母(あるいは家族)も詩篇著者を見捨ててしまい,孤立に追いやられていきます。敵は近づき,虚偽を述べる証人たちが詩篇著者を貶めようとします。見捨てないのはもう主だけです。最後の希望となった主への悲しい叫びが,詩篇後半を覆っています。


信仰者の現実

 この前半と後半の違いをどのように考えればよいのでしょうか? この詩篇著者の本音はどこにあるのでしょうか? しかし私たち自身の生活を省みれば,よく理解できることでしょう。私たちは神に信頼する者であると同時に,何かを恐れて神の救いの約束を忘れてしまう者であります。その間を行ったり来たりするばかりでなく,同時に神への信頼と不信を抱える者です。
 私たちは,他の人が恐れを持たずに神に信頼している姿を見て驚いたり,あるいは羨んだりします。しかし,人は何かを恐れ,やはり不信感を持つものです。私が恐れるものを,たまたまその人は恐れないだけかも知れません。私が恐れないこと(それさえも気づいていないこと)を,あなたの隣の人は恐れているかも知れないのです。
 私たちは神への信頼と不信,あるいは隣人への信頼と不信に,常に揺らいでいる者です。それが現実の姿であり,それを自分の中に素直に認めることができれば,詩篇著者の右往左往ともいうべき心の葛藤も理解できるでしょう。


主を待ち望む

 そのような葛藤の末にたどり着いた結論は,「主を待ち望む」ことでした。この言葉はイザヤ書後半に頻繁に用いられている句です。主を待ち望むとは何か?よく考えてみると,まだ神の業(救い)が実現していないということが前提になっています。まだ主はその業を私には見せていません。問題も敵もそのままです。だからこそ,主を待ち望むのです。今は期待し、焦らずに待つ時であると詩篇著者は自覚しています。これが最も難しい事かも知れません。特に現代人にとって時間は,お金と共に偶像とされています。また,時間をかけて練り上げると言うことも苦手です。教会も同じようなところがあって,教会に集う人々が神の恵みの即効性を求めることは多いように思います。
 だが,立ち止まって主を待ち望んでみましょう。それは時間をかけて神の恵みを経験することを重ねることであり,神の恵みを伝えることを重ねる経験です。私たちが経験するすべての中に,神が私たち一人ひとりに語りかける言葉を聞くことです。詩篇著者は後にどのような神の恵みを経験したのか分かりません。しかし,私たちも待ち望むという詩篇著者の言葉に従いたいものです。