「私たちは絶望しない①」

ローマ人への手紙 5:1ー11

礼拝メッセージ 2017.6.18 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,私たちは神との平和を持っています(1節)

①私たちは持っています

 「私たち」とパウロは記します。パウロは、自分だけがここに書かれていることにあずかっている訳ではない、また4章に記した信仰の父アブラハムやダビデだけではなく、ローマの教会に集っている皆さんも、この恵みの中に立っています、と語っています。こうした書き方は、信仰告白みたいなものだと言う説教者もいます。パウロは「私たちは」と言って、これを読むすべての人たちに、この恵みの中に、神との平和の中に、みなさん、立っていますね、と念を押しているようにも見えるし、また、そういう理解にまだ立っていない人たちに向かっては、この恵みの中にどうか入ってくださいと招いているように、私は思います。新改訳の脚注で、異本「持っていよう(堅く保とう)ではないか」と言う勧めに取る写本もあると書かれています。

②神との平和を持っています

 「神との平和」とは、どういう平和でしょうか。そもそも平和がないとしたら、敵対関係にある、あるいは戦争状態にあると言うことでしょうか。1〜4章で語られてきましたように、創造主である神に対して罪を犯し、離反してしまった人間は、神の御怒りの対象になったということでした。これは現実にどういうことかと言うと、神のさばきを恐れて、こわごわと生きている人はそんなにいないと思いますが、例えば、神の愛を信じられない、神は私を見捨ててしまっている、神は私に無関心である、私の苦しみを理解してくれないし、ただ放って置かれているだけだ、と信じ込んでしまっているような心の苦しさ、絶望、これこそが、神との平和を持っていない状態ではないかと思います。逆に言えば、神との平和とは、神が敵ではなくて、味方となって助けてくださり、私たちと関わりを持ってくださるということです。
 もちろん、信仰生活の歩みの中で、さまざまな苦難を通る時、神が沈黙されているかのように感じることはあります。でも、そんな中にあっても、神の恵みによる導きと支配を、心の奥底で信じ、期待し、祈っている、それは、その人が神との平和を持っていることを示しています。
 この「神との平和」は、10〜11節で、「和解」と表現されています。神と和解するとなっています。和解という表現は、創造主からの視点で考えると、少し妙な気がします。というのは、和解というのは、本来、対等の関係に基づいたもので、人間同士、あるいは集団対集団ならば、どちらの側かが、自分の非を認めて、このように譲歩しますから、対するあなたもどうか争いをやめて、互いのために譲ってください、というイメージがあります。しかし私たち人間は、そもそも神と対等な存在ではありません。
 チェコの神学者フロマートカは、この神の和解について、興味深いことを書いています。「神は、人間の後をついて行く」、と言います。『人間が神の前から逃げて敵意と不信感を抱くときも人間をおいかける』と。『あなたが踏みにじり、傷つけ、侮辱した者が、あなたに手をさしのべ、あなたと仲良く暮らしたいという思いを伝えるためにあなたを追い求める。…しかしあきらめずに働きかけ、自分の友情の証しに、あなたの行為の責任を取ろうとする。つまりあなたの罪の大部分を自らに背負おうとする』(「人間への途上にある福音」新教出版社)。フロマートカが記しているように、神は、私たちを追いかけて来ます。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」(詩篇23:6)とダビデが歌ったように、神は、あなたの後をついて行き、追いかけておられます。そして「和解せよ」「わたしと平和の交わりを持て」と語りかけてくださるのです。神との平和は、神の私たちに対する限りない愛に基いています。そして、そこにこそ、人間の内側からは生まれない、神の栄光に基づく希望があります。


2,私たちは神の栄光の希望に基いて喜んでいます

①私たちは大いに喜んでいます

 神との平和を持ち、神の愛が分かっていても、患難はあります。この2〜5節は、現実の生活に照らして、神との平和を持ち、恵みの中に立っていることが、どんなことなのかを明らかにしているのです。2,3,10節で、「喜んでいます」と書かれています。この言葉は「誇っている」という意味です。「誇る」ということは、胸を張って、得意気な顔で、皆に知らせたいという気持ちが、そこにありますが、そういう意味での喜びです。ついつい伝えずにはいられないことです。それゆえ、信仰生活は、喜びの叫びの連続であると言った人もいます。

②患難さえも喜んでいます

 そういう喜びは、何に基づくかということを、パウロは、神の栄光の希望だと書きました。ですから、それは人間的な、何かに左右されたり、もしかすると挫折してしまう可能性のある、危うい希望ではありません。どんなものも決して揺るがすことのできない希望です。だから、パウロは「患難さえも喜んでいます」(3節)と言いました。神との平和を持っているということは、私たちを真の希望に導きます。患難の中にあってさえ、大いに誇り、大いに喜べるような、絶対的な希望、絶望しない希望が私たちにはあるとパウロは言います。
 3〜5節「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」とあって、患難、忍耐、練られた品性、希望と順番に書いて、どのようにして患難さえも喜べるかを説明しています。でも、これは「艱難汝を玉とす」という慣用句にあるようなものではないでしょう。患難や苦しみは、私たちを磨き、整えるものと単純に言い得るほど、人間は強い者ではありません。ひどい患難によって、人は幸せを失い、希望を失い、生きる力を失います。しかし、患難から絶望せず、希望へと続く道があるのです。次回、詳しくお話したいと思いますが、希望へと続く道は、段階、プロセスがあるということです。人間で言えば、成長のプロセスがあることになります。神との平和に入り、義とされている私たちは、年齢に関係なく、患難、忍耐、練達、希望の階段を登り続けます。あるいは、人生という山を登り続けるのです。私たちには、決して失われることのない同行者がいます。それは、「私たちの主イエス・キリスト」です。