ローマ人への手紙 5:1ー11
礼拝メッセージ 2017.6.25 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,私たちのためにキリストが死んでくださった(3〜8節)
①患難→忍耐→練られた品性→希望へと続く階段
「私たちは絶望しない」というのは、「患難さえも喜んでいます」という言葉の、一つの可能な言い換えとして使いました。希望の神学を掲げる神学者の著書にあった言葉です。患難は悲しむものであって、喜べるというのは、ふつうにはあり得ないことだと思います。どうしてそんなことを聖書は書いているのか、不思議です。ところがここだけでなく、同様な教えが他の箇所にもあります。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2〜4)とあり、試練―忍耐―完全な者というように、ローマ5章に似た、成長の段階を示唆しています。このローマの箇所で、興味深い表現の一つは「練られた品性」です。文語訳、口語訳等では「練達」となっています。この語の中心的意味は、テストしてその純粋であることが証明されることです。
「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」(詩篇12:6)。「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた」。「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主」(箴言17:3)と聖書は書いています。
試練や患難にさらされ、長く戦いを経験すると、むしろひねくれたり、悲観的な皮肉屋になって、どうも濁った人間になるような気がしますが、聖書はそうではなくて、信仰を持った人の人格が練り清められて純化されていくことを示します。純粋にされる理由は、方向性にあると思います。苦しみや困難を通して受けた傷が、単なる悲観や厭世主義に陥らないためには、患難の時をどう過ごすか、苦しみのトンネルをどう耐えていくか、という姿勢や方向性にあることを、この箇所は教えています。たとい苦しみのどん底にいたとしても、そこから希望を見つめている、それが遥かに遠い先であっても、希望があることを信じ、信仰の目をもって見続けているか、あるいは見ようとしつつ忍耐しているか、ではないでしょうか。
当然それは、信仰に基づいた希望です。さらにその希望は、神の愛によって支えられています。だから、その希望は「失望に終わることがありません」と書いています。「失望に終わることがない」とは、字句通りに訳せば「恥をかかせない」ということです。「福音を恥とは思いません」(1:16)と宣言したパウロは、神からの約束として、福音に基いて生きる人が、恥をかいて終わるようなことは決してないと、ここに断言しているのです。
②神の愛が心に注がれている
その大切な根拠は、神の愛です。「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」(5節)。神の愛の真実の現れは、キリストが私たちのために死んでくださったことです。6〜8節に繰り返し告げられている真理がそれです。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」(6節)、「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」(8節)。注意して読むと、キリストの十字架、神の愛の御業に対して、私たちはどういう者であったかがいくつもの言葉で表されています。「弱かったとき」(6節)、「罪人であったとき」(8節)、「敵であった」(10節)。それなのにキリストは私たちのために死なれました。
ここには、弱さや罪の自覚があります。先ほどの患難についてのことに戻って考えると、患難が私たちを襲う時、痛切に思い知らされることは、自分の弱さであると思います。患難それ自体も苦しみをもたらしますが、同時に、より一層辛く苦しくさせるのは、自分があまりにも弱く、無力で、情けない者であることを自覚させられることです。その弱さのゆえに罪を犯し、弱さのゆえに神に対して不敬虔で、敵対的な振る舞いをしてしまうのです。
しかし、その弱い私たちのために、キリストは死んでくださったのです。5節で神の愛が注がれているとありましたが、この「注ぐ」は、完了形で表されています。完了形は過去に起こったことが現在まで継続して影響していることを表現します。過去に一度注がれて終わったのではなく、それが今も続いているということです。だから、パウロは、喜び誇ると言ったのです。
2,私たちは未来の完成へと向かっています(9〜11節)
①救われるという受け身
9,10節に「救われる」「救いにあずかる」と書いていますが、「救う」「救われる」という単語は、この書に計8回出て来ます。そのうち7回は、受け身形で、未来時制です。この箇所もそうです。このことから、2つのことがわかります。1つは、救いは、私たちが自分の力で得られるものではないということです。人間は誰でも、自分で自分を救済することはできません。神によって、キリストを通して、救われるのです。
②救われるという未来
もう1つのことは、救われることは、未来、終末の出来事の中で完全に全うされることです。救いを受けることは、今この時にも可能であると言えますが、その完成は、未来においてなされることです。今は、その確かな約束を受け取っている状態です。
先日、牧師研修会で講演された先生が、神のご計画している未来、終末というものは、全被造物のうち、あなたという、たったひとりの人が欠けても、それは完成できないものだと言っておられました。本当にそのとおりであると思います。終末論とか、神の計画といっても、自分と何も関わりがないと思わないでください。神は愛するあなたを置き去りにして、この世界のための計画を進めることはないのです。あなたもその完成を待っていますが、神もあなたが加わることを待っておられるのです。私たちは義とせられ、和解をいただき、ご計画に参与していくものとされているのです。その途上にある者として、患難を見なくてはなりません。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(コリント第二4:16〜17)。