「死の支配といのちの支配」

ローマ人への手紙 5:12ー21

礼拝メッセージ 2017.7.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,ひとりの人アダムによって、罪が入り、罪によって死が広がった(12〜14節)

①ひとりの人アダムによって罪が入りました

 パウロは、この箇所で「ひとりの人」という表現を繰り返し使っています。「ひとりの人アダム」「ひとりの人イエス・キリスト」、そしてその「ひとりの人」の「罪」や「違反」や「不従順」が、いかに大きな影響を私たちの世界全体に与えているかを説明しています。私ひとりが罪を犯したからといって、どうってっことはない、と考えがちですが、池に小石を投げ込むとその波紋が広がるように、ひとりの誤った行動が、のちに大きなダメージを周囲や未来に与えてしまうことがあるのです。
 創世記3章に、最初に造られた人間アダムの罪による堕落が記されています。このアダムが罪を犯したことによって、聖書は「罪が世界に入った」と言います。私が長く使用しているコンピューターには、少しかじった跡のあるりんごのロゴマークがついています。そのメーカーのスマホを使用している人もたくさんおられると思いますが、私はこれを見る度に、やはり創世記3章の原罪を思い出してしまいます(創案したデザイナーはその意図を持っていたとは言っていません)。
 罪がアダム以降、すべての人たちに及んでいくことについて、昔からそれはどんなふうに広がって、罪が及んでいったのかを考え、いろいろな主張がなされてきました。ある人たちは、罪を遺伝するもののように考えました。また別の人たちは、アダムが人類の最初の人で代表者であったので、彼が罪を犯してしまったことで、その子孫であるどんな人間もその影響や束縛から逃れられなくなったと言う人もいます。また、人間は初めから罪の影響を受けた状態で誕生するのではなく、その後の周りの影響で罪を犯してしまうと考える人たちもいます。
 いずれにしても、ここでのパウロの明白な主張は、アダム以来、すべての人は罪を犯し、罪の課題を抱えて来ているということです。そのことの結果、あるいは、そのことを証明するかのように、罪によってその報いである死がもたらされたと語られています。

②死の支配

 罪の結果である死は、すべての人を巻き込み、拘束しているもの、その影響下から誰も逃れることができません。「メメント・モリ」(死を忘れるな)という言葉は有名ですが、これはある修道院で挨拶のかわりに用いられていました。自分が死ぬということを忘れてはいけないと、日々、御言葉と祈りと労働によって奉仕していた人たちが、そのように互いに語って、確認していたそうですが、現代の私たちはなおさら、このことを忘れてはならないのかもしれません。
 しかし、ある説教者が言うには、罪や死について、実際には多くの人たちはそれを真剣に考えたり、心に憶えることができていないのではないか、というのです。この世においては、死が最もネガティブで、忌まわしいことなので、考えたり理解することから、目をそらしていると言います。しかし、さらに言われることは、救いを知り、真のいのちにあずかっている人だけが、死というものを真正面から見つめて、受けとめることができると、教えていました。本当にそのとおりであると納得しました。だから、バルトは「死を忘れるな」だけではなく、同時に「主を忘れるな」ということも心に刻むように『教会教義学』の中で述べています。


2,ひとりの人キリストによって、恵みが満ちあふれ、いのちが支配する(15〜21節)

①アダムとキリストとの比較対照

 この箇所には、アダムとキリストとの対照的に繰り返し書かれています。原文を読むと、パウロが何回も同じようなことを語っていることが実感できます。私の語学力では十分わからないのですが、専門家によると、この12節から17節はギリシア語では破格構文というものだそうです。文法的に完結しないような表現をしているそうです。それも一つの修辞法として書いています。そうした文体にするのには理由があるのですが、おそらく、非常に心が高揚している感情を、そのような文体であえて表現したのではないでしょうか。何に、そんな心の高揚を感じているかといえば、それは、キリストによってもたらされた恵みによる、いのちの支配であると思います。
 アダムとキリストが比較されているように見えますが、厳密には比較されていないと言えるでしょう。別の言い方をすると、キリストを語るために、アダムのことを持ち出したように思います。一応、アダムのもたらした罪と死について語るのですが、それと本来比較することができないほどの、巨大な恵みが存在するということなのです。それでもアダムを引き合いに出したのは、アダムによって入った罪、死の支配力と、それと好対照を表す、キリストを通しての恵みと、いのちの支配があることを示すためでした。2000年前のキリストの十字架と復活が、なぜ現代の私たちに影響するのか、というような質問に対して、パウロが示す、アダムによる罪と死の支配力のことは、そのことの真反対の良き例となります。アダムの影響は今も誰もが感じています。それと同様に、キリストによるいのちの支配も、現代の私たちに確実に及ぶものなのです。ある人はこの箇所全体に「新しい世界」(バルト)とタイトルをつけ、また他の人は「死の力からの自由」(ケーゼマン)としました。とにかく、考えられないほどのことが起こったし、開始されたとパウロはここで言っています。

②恵みの賜物は、いかなる違反、さばき、死よりも大きい

 15節では「違反」、16節では「さばき」、17節では「死」との比較対照で、恵みの賜物、義の賜物がいかに大きなものかを明らかにします。恵みは、いかなる違反よりも、いかなるさばきよりも、いかなる死よりも、大きいことが語られています。
 組織神学では、神の救いの選びに人間が逆らえないことを示す用語で「不可抗的恵み」(irresistible grace)というのがあります。「不可抗」すなわち、神の恵みに対して、誰も逆らえない、抗えない、という意味です。私は、この箇所の「恵みの支配」と、神学用語の「不可抗的恵み」とは似通った響き感じます。恵みというのは、繊細で穏やかで優しいイメージであるのに、支配したり、逆らえない、というのは価値の大逆転が起こっているのです。いのちと恵みが支配する、新しい世界にようこそ!