「人とは何者?」

詩篇 8

礼拝メッセージ 2017.7.9 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


神の創造

 私たちの主人であるヤハウェに対する賛美が述べられています。この詩篇に登場する天と地を創造し支配する,創造者としてのヤハウェが表現されています。天は神が住まう場所です。
幼子と乳飲み子の口によって何がなされるのでしょうか?幼子や乳飲み子の口に力の基(砦)をおいて,敵に備えます。理由は敵対者を治めるためです。小さな子どもが敵を屈服されることはありえません。神自身が天地を支配し,神に敵対する者たちを治めるのです。
 詩篇著者は天に目を向けます。ここでの天は空であり,夜には月と星とが輝いています。人間には手の届かない天空を創った神の大きさと偉大さが語られているのです。そのような天空に代表される自然の大きさに比較して,人間の弱さが告白されています。そのような力のない,偉大さをも感じさせない人間に創造主であり支配者であるヤハウェが目を留めることは不思議なことだと言われます。人間は価値あるもの,強いもの,多くを生み出すもの,そこに目を留めます。人間よりも偉大な神は,自分自身には力のない人間を目にかけます。


人間の価値

 人間には価値が与えられていると述べられています。力ある神は,力のない人間に栄光と尊厳を与えます。それは,人間は神よりも少し劣ったものとして創られているからだとされています。これは神と動物(被造物)との間に人間を置いているという意味であり,神が人間に価値を認めていることが告白されているのです。次に、人間の価値が自然の管理という側面から記されています。人間は価値あるが故にその証として信頼され,神から使命が与えられます。自然が自然として秩序を持って管理される、すなわち神の与える命が守られること,そこに神の創造の本質があります。命を守ることに人間の使命があるのです。


弱さゆえの価値

 神が自然を創り,人間を創造したことがこの詩篇の主題です。神は人間に価値を認め,人間よりも偉大な自然の管理を任せます。ただし、力だけで人間が自然を管理しようとしてもそれは無理です。もし能力だけに神が注目するとするならば,神は人間に自然の管理を任せたとは思えません。神が一方的に人間の尊厳を認めて,絶えず人間に配慮したことによってのみ人間はその管理を任されます。弱い人間はそれゆえに価値があり,それゆえに神から成すべきことを任されています。
 私たちの生活の中で自分を考えるときに,自然と比較することは余りないように思えますが。他者と比較することは多いでしょう。互いに比較します。そこで人間は優劣を持ち,人間関係を作り上げようとします。その量りは様々です。年齢、性,容姿,収入、社会的地位,学歴,などなど,数限りありません。それに対して,聖書の人間観は「弱さ」に注目します。劣るとされる点に神は味方するのです。だから,自分のことを価値のないとすることは謙遜に見えて全く謙遜ではないのです。それは,神が認める価値を損なうことになるからです。


認めるべき他者の価値

 自分に価値を認めることは,他者に価値を認めることでもあります。これも困難なことです。私たちの普段の社会生活の基準は,先ほど挙げたように事柄です。また,そのようなことが必要になる場合もあるように思えます。効率などをそこに加えて良いでしょう。ただ,自分だけが受け入れられることで留まるとするならば,受け容れられないことの恨みを晴らしているにしか過ぎないこともあります。互いに必要な存在であることを認め合う方向で人間関係を作っていく必要です。神は私たちに価値を置き,私たちを必要とします。必要とすることは神が私に関わることであり,私たちも互いにそのような関係作りが出来れば,ともに神の意思を実現できる道が開かれていきます。自分に対する価値が見出せないときには,他の人に価値を見出す中で,自らの価値の回復に導かれます。神は互いの弱さに注目し,弱い点を互いに協力し合いながら克服することを望んでいるからです。