ローマ人への手紙 6:1ー11
礼拝メッセージ 2017.7.16 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,私たちは、罪の中に戻れないし、とどまれません(1〜2節)
「それでは、どういうことになりますか。」(1節)とありますように、前のところで語られたことが繋がっています。20節「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とパウロは書いています。それを逆手に取って、だったら、恵みがもっといっぱいになるように、罪を犯そうではないか、罪の中に浸りきろうではないか、という屁理屈が聞こえてきたと言うのです。
本当にそんなことを言う反対者たちの存在があったのかもしれませんが、内なる人間の心の声、欲望の思いを想像して書いているのかもしれません。抑えがたい罪の誘惑に負けてしまったときに、人は、こうした言い訳を心の中で繰り返して、自らの弱さを正当化してしまうのです。
しかし、そこには、神の恵みということが本当の意味で、正しくわかっておらず、経験してもいないと思います。「絶対にそんなことはありません」(2節)とパウロ全否定しています。これは、直訳的に言えば、そんなことが起こってはならないという意味で、また、そういうことが絶対に起こらないように、という願いや祈りの言葉だとも言われます。あるギリシア語辞典には「そんなことがあってたまるか!」と書いていました。国語辞典の記述に面白いところを見つけて解説している本がいくつかありますが、新約聖書ギリシア語辞典にもそんな記述があるのです。
なぜ、そんなことがあってたまるか、と激しく否定するのかと言えば、私たちは、もう罪に対しては死んだ者となっているからであると説明しています。もう元へは戻れない、逆行できないのです。奴隷状態であったところから出エジプトをしたからには、もはやエジプトに帰れないのです。餓死することはなかったエジプトでしたが、今さら懐かしんでも、仕方のないことです。モーセはエジプトに置き忘れた物があったとしても、取りに帰ることはなかったのです。ただ約束の地へと神を信頼して進んで行くだけでした。この後に記されていますように、アダムから、キリストへとつなぎ直された私たちが、罪にとどまることは論理的に不可能なのです。パウロがなぜ、罪の中に生きることが不可能になったのかを、キリスト・イエスと私たちとの関係から、説明しています。そしてそれは、私たちが罪に生きないで、義に生きる、神の恵みに生かされて、本当の人間らしく、新しく生きることを促しているのです。
2,私たちは、キリストの中へバプテスマされました(3〜4節)
パウロは、バプテスマ、洗礼について語ることで、ローマの信徒たちが信仰の原点に立って、自分が罪から解放され、主の新しいいのちに生かされていることをあらためて確認させています。
3節「キリスト・イエスにつくバプテスマ」と、「〜につく」と書いている表現は、そのまま訳すと「〜の中へ」という言葉です。新改訳聖書は、その後の5節で「つぎ合わされる」の意味や、キリストへの服従うというところから、「つく」と訳したのかもしれません。しかし、直訳は「〜の中へ」であり、バプテスマという語も、完全に浸す、水没させるという意味です。ギリシア語—英語の行間訳の一つでは、「私たちはキリスト・イエスの中へ浸されました」(We were immersed into Christ Jesus,)となっていました(McReynolds “Word Study Greek-English New Testament” Tyndale)。
元々、バプテスマは、全身を水没させる行為を意味しました。それで言えば、キリストというお方の中に全身が浸され、没入し、この方の支配の中に完全に移され、所有されたものとなったということを指しているのです。
私たちの教会が属しているメノナイトというのは、再洗礼派と呼ばれているグループです。今から500年ぐらい前に、この再洗礼派運動がヨーロッパで起こったのです。当時、教会の権威は絶大で、教会と国家は結びついた中で、幼児洗礼が行われていたのです。自覚的な信仰の「しるし」として、洗礼を理解した人たちが、国禁を犯して、信じる者同士が互いに再び洗礼を授け合ったのです。彼らの行為が、当時の国や教会の権威を否定するものとして考えた当局の者たちは、彼らを捕らえて牢に入れたり、拷問したり、殺したりしました。しかし、キリストの中に浸されているという確信の中に生きていた彼らは、「キリストの弟子として、我々は完全に罪に死んだのである。その結果、キリストが父の栄光によって死から復活されたように、我々もまた新しい人生を歩むべきである」(A.スナイダー著「イエスの足跡に従う」東京ミッション研究所)と語って、信仰の道を進みました。
3,私たちは、キリストの死と復活に結合されました(4〜5節)
3節「その死にあずかるバプテスマを受けた」、4節「キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた」と書いています。バプテスマ、洗礼の意味がここに明らかにされています。水のバプテスマを受けることは、十字架に架かられたキリストと私たちが霊的に一体となっていることを表しています。2000年前の歴史上の出来事なのに、時間と空間的な隔たりを超えて、キリストの十字架に結びつけられるのです。これは人間の内になされる、聖霊による働きです。
黒人霊歌で「君もそこにいたのか」(新聖歌113番)という曲があります。原歌詞では「彼らが私の主を十字架につけた時、あなたはそこにいたのか?」となっています。ちなみに原歌詞では、「眺める」「聞く」「気がつく」といった言葉はなく(訳詞者の美しいアレンジでしょう)、全節「そこにいたのか」(Were you there?)となっています。「(あなたは)そこにいたのか」(Were you there?)ということが強調されています。「そこにいたのか」とは、あなたの罪のために死なれた方を、あなたはただ傍観者として眺めていたというのではなく、キリストの十字架が今、あなたに差し向けられた、罪の赦しと神の愛であることを信じているか。時空を超えた神からのものとして、あなたはその真理を受け止めたのか、経験したのか、ということでしょう。そのことによって、実に「震える」のです。十字架、埋葬、死からの復活、このキリスト・イエスの味わわれたことが、今のこの自分と結び合わされたという、ものすごい恐れ、人生を根底からひっくり返すような、とてつもない感動、それがあなたを震撼させる、キリストとの結合なのです。