「心の中の戦場③」

ローマ人への手紙 7:14ー25

礼拝メッセージ 2017.8.27 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,人生は、罪との戦いです

人間の心の中で起こっている魂の闘いに気づいていますか

 「心の中の戦場」と題して、7章全体を見てきましたが、本日取り上げられるこの7章後半部分は、この書の中でも、おそらく特にインパクトのある箇所ではないかと思います。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(15節)とパウロは独白しています。
 人の心の中にある、罪の戦い、あるいは様々な葛藤を抱く現実を、赤裸々に描き出し、暴いて見せ、読者にあなたの心の中はどうですか、と問いかけているような感じがします。しかし現実には、すべての人がそんな心の葛藤を抱えて生きているように見えないのは、たぶん、誰も外から見て、他の人の内側の部分まで分からないということがあるからでしょう。もしかすると、自分の心に向き合うことをその人自身が避けているのかもしれないし、日常の忙しさに紛れてしまっているのかもしれません。あるいは、自分の状態に気づいていないということもあるでしょう。
 しかし、パウロは自分の内側を、客観的で透徹した目で眺めることができた人でした。ここで、聖書を読み、親しむことの大きな恵みが暗示されていると思います。聖書を読むと、自分という存在の本当の姿、奥深いところを知ることができます。もちろん神様についても多く知ることができますが、同時に人間、つまり自分の心の中のことも、御言葉の光でハッキリと照らし出されて、隠れている心の弱さや痛み等が驚くほど明らかにされることがあるのです。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)。そこでパウロが自分の中に見いだしたことは、2つの異なった「私」がいて対立していることでした。

自己の二重性、分裂状態にある「私」

 スティーヴンソンの「ジキル博士とハイド」の小説のように、人間の心の中には、正しく道徳的であろうとする自分と、罪と欲望に惹かれていく自分が存在しているように感じます。ハイドという名前は「隠す」という意味のhideを文字っているそうです。
 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(15節)の表現にあるように、自分でない自分、真の自己とは思えない自分が存在しているように、パウロは書いています。フランツ・カフカの「変身」のように、ある朝、自分が毒虫のようになっていることに気づく主人公のようです。自分の罪深さに気づき、自分を持て余し、自分が自分ではないようにさえ思えてきます。
 デビッド・ストーンという聖書学者は、これらの聖書記述の中に、4つの二重性を帯びた現実があることを指摘しています。第一は、2つの自我(エゴ)があり(21節)、第二に、2つの法則(律法)が書かれていること(22−23節)、第三に、2つの心の叫び、そして第四に、2つの奴隷状態(25節)です。確かによく見ると、2つの私がいて、善を欲する自分 対 悪を欲する自分、内なる人 対 肉(あるいはからだ)、神の律法 対 罪の律法などの対決があります。
 しかし、いずれにしても、本来的な自分と、もう一人の自分ということの間に、厳しい戦いがあり、多くの場合、勝者は罪であり、神の御心と相容れない悪の心が勝ち、本来的な善を行いたい自分は、そこで敗北感と挫折を味わいます。そこで明らかな霊的事実は、人は、自分の力で、罪との戦いにあって、勝利することは決してできないということです。どんな宗教的な修行も、善行も、完全な勝利を私たちに与えてはくれません。


2,神の恵みによって、私たちは必ず勝利します

 24節と25節に注目しましょう。「私は、ほんとうにみじめな人間です。」とは、なかなか人前で言えない告白です。それにしても、どうして、こうもパウロが自分の心の絶望状況を述べているのでしょうか。そのことに関して、ジョン・ストット師が興味深い指摘をしています。「私たちの肉は絶望的なまでに悪であるということを、正直に謙虚に認めることこそ、聖潔への第一歩です。…聖霊の御力に対する信仰に到達するただ一つの道は、自己絶望の道にあるのです。」(ジョン・ストット著 飯塚俊雄訳『ローマ人への手紙五章〜八章』聖書同盟)。ストット師が言う「自己絶望の道」は、確かに聖書の多くの箇所で見られる神経験から来る魂の叫びです。「私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう」(エゼキエル32:10)、「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)。
 明らかなことは、私たち人間は、地上で生きている間、罪との戦いの中を生きなくてはならないということです。もちろん、主にある生活の中において、信仰的、霊的な成長や成熟が与えられていく中、戦いの質も変わることでしょう。けれども罪との戦いは完全にはなくなりません。それと同時に知っておかなくてはならないことは、私たちは必ず勝利できるということです。今は、魂の格闘に疲れ、限界を感じ、弱さの中に閉じ込められているような気がしているかもしれませんが、主キリストを通しての、神の恵みの勝利は確定しているのです。
 究極的で完全な勝利は、地上生涯では経験できないかもしれませんが、だれでも、パウロと同じ喜びに達することができます。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(25節)という喜びの人生です。「だれが…救い出してくれるのでしょうか。」という問いに対して、「主イエス・キリストだけがこの私を、私たちをこの死のからだのみじめな状況から、完全に救い出してくださいます。だから、私は神に感謝しているのです。」という説明的表現になっていません。「神に感謝します」(原語 カリス・トー・セオ)の同じ表現は、ローマ6:17,Ⅱコリント2:14等に記されています。「神に感謝」は、多くの言葉はいらない、喜びの気持ちをストレートに示す表現です。日本語で言えば、「神様、ありがとう!」という感じでしょうか。そんな嬉しさと感動が、自己絶望の道の果てに用意されているのです。