ローマ人への手紙 8:1ー11
礼拝メッセージ 2017.9.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,御霊は、あなたを自由にします(1−4節)
ローマ人への手紙8章は、最もよく知られた、偉大な章です。聖書全体の最高峰のような箇所と考えている人も大勢います。多くの説教者が、8章全体のテーマ名を、「ライフ・イン・ザ・スピリット(Life in the Spirit)」と題しています。日本語にすると、御霊による生活、霊の中の生命、など、いろいろな訳が可能です。この8章は、その全体に渡って御霊の存在と働きについて、語られていることは間違いありません。邦訳では「御霊」となっていますが、原語では敬語の「御」の文字はなく、単に「霊」(プニューマ)で、人間の中の霊の性質を指す場合もある言葉です。今回の箇所では「神の御霊」「キリストの御霊」(9節)という言葉で表されているように、三位一体の神、神性を持った方として、理解することが適当です。御霊は人格を持った、力ある神です。
タイトルにしましたように「キリストの力」とは、御霊の力のことです。この力は、どんな力かと言えば、それはとてつもないパワーです。7章24〜25節を思い出しましょう。パウロは告白しました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだからから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と。
この世界には、さまざまな力が存在します、軍隊の力、経済的力、肉体的力など。しかし、最も偉大な力とは、人間がどうすることもできないことを成し得る力であると思います。その力とは、人間を罪と死から解放し、自由にするものであり、人を真に生かすいのちを与える力です。
8章1節をご覧ください。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。この表現はこれまでの話の内容の帰結の言葉であり、これから8章で語ることの表題にもなっています。自分がほんとうにみじめな人間、救われる道を求める切実な状態にあるとの認識に至った人であれば、誰であっても、天からの声としてこの言葉を受け取れます。だいじょうぶです、キリストの中にあるならば、あなたは決して罪に定められません!という言葉です。それが8章1節であり、その理由説明に、続く2節以降の文章が答えています(2、3、5、6節は、原文で見るとその全部に「なぜなら」(ガル)という接続の言葉が最初にあります)。
1〜4節では、御霊による自由、解放が語られ、5〜8節では、御霊による思いが述べられ、9〜11節では、御霊による内住が示されています。まず、なぜ罪に定められることがなくなったのかと言えば、キリストの中に置かれることにより、罪と死の原理から、別の原理に移されたからです。原理や法則は場所が違えば、変わってしまいます。引力の原理は、地球を離れて、宇宙空間の無重力状態に置かれると、それは変わりますし、ある国特有の法律は、その国に住んでいたり、その国の人でなければ、適用されることはないのです。
私たちは、キリスト・イエスの中に移されたのです。罪と死が無効となる領域へと移されました。確かに、生きている限り、罪や死に影響され、罪を犯し、罪に翻弄されるようなこともありますが、私たちがキリストの中にある限り、決して、罪と死の力に完全に負けてしまうことはなくなったのです。御霊が私たちをそのところから、解放してくださったからです。
2,御霊は、あなたに御霊の思いを与えます(5−8節)
4節以降、肉に従うか、霊に従うのか、ということが対比して説明されています。しかし、このところでパウロが語っているのは、ギリシア的な霊肉二元論ではありません。パウロが「肉」という表現を使う場合の、この「肉」とは、単に人間が持つ肉体というような中立的なものと言うよりも、信仰の面で、神に逆らい、神に反抗する、そういう弱さを持った人間の性質を指しています。神に従う心と、神に逆らう心の対比と理解できるでしょう。
私たちキリストの中にある一人一人は、「御霊に従って歩む」ことへと導かれています。そして、御霊に従って歩んでいるとは、どのような方向に進むかと言えば、それは「律法の要求を全うする」(8:4)道に進ませるのです。反対に、肉に従って歩むことは、「神に反抗し」「神の律法に服従しない」(7節)ことが述べられています。御霊は、私たちの心を変えられるのです。それは、御霊の思いを思いとするような姿勢に変えて行かれるということです。言わば、聖霊マインドを持つのです。当然、それは律法にかなう生き方へと私たちを整えていきますし、「いのちと平安」(6節)の思いへと導きます。
3,御霊は、あなたの中に住まわれます(9−11節)
9節「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら…」、10節「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら…」、11節「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら…」、と3回繰り返し、「もし〜なら」と同じ表現になっています。3つの「もし」は、ほぼ同じことを言っています。要約すると「もし御霊(キリスト)があなたのうちに住んでおられるなら」ということです。そして結果も同じようなことが語られています。御霊が住んでいるなら、あなたは御霊の中におり(9節)、義のゆえに生き(10節)、死ぬべきからだをも生かされる(11節)ということです。
私たちのうちには御霊が住んでおられます。そのことをどれほど理解し、信じて生きているのかを、この3つの「もし」でもって確認し、思い起こさせようとしているのです。逆に言えば、もし御霊が私たちのうちにおられないのであれば、これこそ本当に、私たちが求めなくてはならないことだと思います。ルカの福音書11章に「求めなさい…捜しなさい…たたきなさい」(9節)と勧められ、最後の13節でイエスは「とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(13節)と語っています。
キリストの力と心を宿す生活は可能です。いのちと平安に満ち、その御霊による原理で日々歩むことができるのです。なぜできるのか、それは神の御霊をその人が宿しているからです。なぜできないのか、それはキリストの霊を持っていないからです。御霊の働き、自由、思いが、私たちのうちに、私たちの周りで、力強く展開されていくことを天の父に切に祈り求めていきましょう。