「神の子どもの苦しみと栄光④」

ローマ人への手紙 8:31ー34

礼拝メッセージ 2017.10.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,だれが私たちに敵対できるでしょう(31節)

「では、これらのことからどう言えるでしょう」

 この聖書箇所から8章の最後までは、ローマ人への手紙の頂点、聖書というエベレスト山の最高峰である、と呼ぶ人もいます。言葉の表現も美しく、その内容も神の啓示における、最重要の真理を示しています。31節からは一つの小区分で「では、これらのことからどう言えるでしょう」と始まっています。「これらのこと」とは、何を指しているでしょうか。5〜8章という広い範囲からの結論である、と言う人もいますが、一番理解しやすいのは28〜30節の内容を指すと見ることです。28〜30節に書かれていることは、私たちが、神のご計画に従って召された者たちであるとのメッセージでした。私たちはみな、神の素晴らしい御心の中に置かれ、その計画や目的のため、私たちは呼び集められ、一つのからだとされました。神の計画なので、決して頓挫したり、失敗することはありません。絶対的に信頼して良い最高の計画です。そのような私たちですから、神はすべてのことを働かせて益とされるのです。
「益」となる道筋もすでに定められています。29〜30節に明らかなように、私たちは最終的に御子イエスと同じかたちに変えられて行きます。そのプロセスも始まっており、神が、まず予知し、予定し、召し出し、義と認めて、最後には、栄光を与えます。予知、予定、召命、義認、栄化です。これを祝福の鎖と呼ぶ人もいます。このうち4つ目までは、すでに与えられています。私たちの最終ゴールは、栄化です。栄化とは、栄光に満ちた、輝く存在に変えられるということです。私たちは信じ救われて終わるの者ではなく、栄化に向かって進んでいる存在です。
 このように、神のご計画の中に導かれている私たちであるということは、どんな心配や不安、恐れも、本当は持つ必要がないということなのです。神のご計画の中に召された私たちは、ここから語られていく、すべての疑問符に対して、全部、はい、そのとおりです、となります。だれも敵対できないし、すべて恵んでくださるし、だれも訴えることも罪に定めることができません、という答えが確定しています。

神が私たちの味方です

 最初の「だれが私たちに敵対できるでしょう」というのは、もしその前の「神が私たちの味方であるなら」が付いています。この真理がなければ、そうはいかないと思います。むしろ「私たちに敵対できる」者はたくさんいるし、敵となって攻撃して来るかもしれません。味方と敵というのは、スポーツの競技で考えるとわかりやすいでしょう。野球であれば、豪腕投手、4割の強打者、走攻守が揃った万能選手、こうした者は味方にいると心強いですが、敵にすると手強い存在となります。私たちの味方となってくれる方で、最も頼もしい存在は、何と言っても天地の創造主、全能の神です。原文では、「味方」というギリシア語の単語がある訳ではありません。英語で言えば、God (is) for us(ゴッド・イズ・フォア・アス)です。直訳すれば、神は私たちのためにおられる、あるいは、私たちのために存在される神、ということです。全能の神がついているこの私たちに向かって、いったいだれが敵対しようとするのでしょうか。


2,どうしてすべてのものを恵んでくださらないことがあるでしょう(32節)

 私たちはいろいろな必要を感じて、あれもない、これもない、と言って、不足や窮乏を訴えます。また与えられたものを公平に分配できていないという現実問題もあります。足りないことに対する不安や恐れに対して、この32節はだいじょうぶです、と言います。なぜなら神はあなたに対して考えられないほどのものをすでに与えられたから、とその理由を述べます。それが「御子をさえ惜しまずに死に渡された方」という言葉です。もし気前のいい人がいて、これもあげる、あれもあげると言って、自分の生活を犠牲にしてでも多くの物をくれるとしても、決して他人に与えないものがあります。それは自分の子どもではないでしょうか。跡継ぎです。殺すぞ、と脅されて自分の全財産、自分自身さえ差し出したとしても、決して渡せないものは、自分の息子です。
 どうしてすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあるでしょう、とは、その確信に基づいてのことです。この「死に渡された」というのは、「引き渡す」の意味で、この語はイエスの十字架予告などでも度々語られた強い表現です。御父は、大切な独り子に対して、非情とも思えるような行動を取られたのです。それは、私たちを愛しているという理由からです。御子をさえ与えてくださった神が、どうして何かを出し惜しみすることがあるでしょうか。必要とあれば何でも与えてくださいます。


3,だれが私たちを訴え、罪に定めるでしょう(33−34節)

 33節「訴えるのはだれですか」と34節「罪に定めようとするのはだれですか」というのも、これまでのところと同じことが言えます。訴える者、罪に定めようとする者は、だれもいないかと言うと、実際には、いると思います。こう言われたらどうしようと、言い訳を考えて行動している時があります。それは、私たちの心の中に、何らかの後ろめたさの存在かもしれません。でも、こうした心の中の声は、良心の声のこともありますが、多くは劣等感や間違った強迫観念でしょう。しかしそれに便乗してくる悪者がいます。それが聖書が語る、悪魔、サタンと呼ばれる霊的存在です。「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」(黙示録12:10)です。忘れてはならないのは、私たちを義とするか、罪とするかは、神がお決めになることです。
 34節では、イエス・キリストの働きが述べられています。主は十字架で死なれ、三日目によみがえられた方、そして昇天されて、神の右の座にお着きになりました。完全な神の御業を成し遂げられたキリストが、私たちの救いの保証であられます。そして、キリストご自身が、御霊と同じように、私たちを執り成してくださっています。天においては、執り成しをキリストがされ、地においては、御霊がうめきをもって、執り成してくださいます。ですので、神のご計画の中にあるということは、神からの無条件の完全な永久保証をいただいているということなのです。