「神の子どもの苦しみと栄光⑤」

ローマ人への手紙 8:35ー39

礼拝メッセージ 2017.10.22 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,私たちの日々の苦難とその力—「私たちは一日中、殺されています」

5つの返答不可能な疑問

 偉大なローマ書8章も最後の部分となりました。31節から見てきた、「5つの返答不可能な疑問」の最後の投げかけの言葉です。最初の4つは、次のとおりでした。「だれが私たちに敵対できるでしょう」、「どうして御子といっしょにすべてのものを恵んでくださらないことがありましょう」、「訴えるのはだれですか」、「罪に定めようとするのはだれですか」。
 そして今日の聖書箇所が5番目の「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか」という問いです。どれも、答えは、そんなものはありません、だいじょうぶです、と答えることしか、できないものです。それほど、神が私たちに与えてくださったものが、揺るぎないものであり、確信して良いことを表しています。神の言葉によるこの真理を、苦難の現実の中で受け取り、大胆に信じて、今の時を歩むようにパウロは読者に願ったのです。タイトルで掲げてきましたように、神の子どもは最後的には、栄光の姿に変えられるのですが、その途上にあって、苦しみも経験するということなのです。この5番目は、その素晴らしい真理の結びとして、あるいは頂点として、讃美歌のように歌い上げられ、同時に、完全な勝利宣言にもなっています。

引き離すもの(セパレーター)の存在

 36節に「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と詩篇44章22節が引用されています。この詩篇の言葉の内容は、新改訳の下欄の引照で、コリント第一15章30節以下、パウロの手紙の中に直接的あるいは間接的に、多く述べられている言葉であることが記されています。パウロの伝道生涯において、迫害や困難は日常的に起こっていたのでしょう。彼は、この詩篇の言葉からその現実と確かさとを認識していたと思います。「死に定められている」は、詩篇44:22と同じように「私たちは殺されている」と訳すことができます。しかも、「一日中」となっています。「一日中殺されている」という言葉の強烈さは、現実の苦難の大きさ、悲惨さ、恐怖をよく表しています。耐え難いような辛いこととして、いろいろな苦悩、肉体的な苦難(病気など)や精神的苦痛や傷、終わりの見えないトンネルの中にいるような恐怖が、この表現の中によく言い表されています。
 35節の「患難」「苦しみ」「迫害」「飢え」「裸」「危険」「剣」は、具体的にどういう状態を言おうとしているのか、何も書いていませんが、おそらくパウロの経験に基づいた苦しみのリストでしょうし、当時のキリスト者たちが経験している困難なものを挙げていると思います。私たちの時代にも、ほとんど当てはまるものです。いずれにしても、これらのものが表しているのは、私たち人間が世にあっては、いかにさまざまな不幸や苦しみの現実の中にあるのかを思い出させるだけではなく、それが、多くの場合、私たちと神様との絆を壊したり、神の愛を信じさせないようにするということです。
 これらのリストが、7つ挙げられていることで、7という完全数から、引き離すものの存在、その敵がいかに強力なものであるかを示しているのかもしれません。英語の注解書ではセパレーター(separators 分離者)と書いてあって、こうした物事をパウロが擬人化したものとして描いていることを示していました。しかし、そのセパレーターたちが、どんなに手強い敵であるかを知ってもなお、聖書は大きな声で断言します。だれも「神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(39節)。


2,私たちの日々の信仰とその力—「私たちは圧倒的な勝利者となるのです」

圧倒的な勝利者

 37節に注目してみましょう。「私たちは、…圧倒的な勝利者となる」という文章です。「圧倒的な勝利者」と訳されている言葉は、文語訳聖書で、「勝ち得て余りあり」となっています。元のギリシア語は、ヒュペルニコーという語で、「勝つ」という言葉に「超える」という語が付いています。ですから、邦訳にも表わされているように、単に勝つというのではないのです。ギリギリの僅差で勝つのではありません。スポーツ観戦ならば、そのほうが楽しいかもしれませんが、私たちの信仰、永遠が決まるバトルに、そんなスリルを求める必要はありません。私たちが受けている勝利は、敗北する恐れが何一つ存在しないような勝利なのです。だから、勝ってなお余りがあると言えるし、「悠々と勝つ」と訳しているものもありますが、本当にそうなのです(参照;ヨハネ16:33)。そのことを保証するのは、「私たちを愛してくださった方」がおられるということです。私は、この「愛してくださった」というのが過去形である理由は、イエスの十字架という決定的な愛を指し示していると理解しています。有名なヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」の「愛された」という過去形と同じです。これは、もう否定出来ない歴史の中に刻まれた事実です。聖書は、この十字架の犠牲によって私たちに示された神の愛、そしてキリストの愛の強さが、どんなに強力なものであるのかを教えているのです。

終末的セパレーターと超自然的セパレーター

 38〜39節のリストは、人間世界を超越した存在者、スーパーナチュラルなものを示しています。そしてこれは、18〜25節で語られて来たように、終末的な事柄を指しています。リストアップされているものもそうですが、39節最後の「引き離すことはできません」というのも、厳密に訳せば、「引き離すことはできないであろう」という未来形です。
 将来という終末的な未来を指す時間の軸においても、人間存在を超えるような霊的な存在者や霊的な支配力やパワーという領域においても、これらが指しているのは、目に見えるものだけではなく、目に見えないどんなものも、ということなのです。パウロが確信していることは、それが長大な未来への時間であれ、人間知性で決して測り知れない広大無辺な霊的世界の超自然的な力であれ、「キリスト・イエスにある神の愛」から、私たちを引き離すことができるものは、何一つ存在しないということです(参照;エペソ1:20−21)。ハレルヤ!