「救いのための嘆きと執り成し」

ローマ人への手紙 9:1ー5

礼拝メッセージ 2017.11.5 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,パウロの心の痛み—私たちの嘆きとは?

9章からの新しいテーマ

 8章までで、内容の大きな一区切りが終わり、9章から新しいテーマが展開していきます。この章から11章までが、神のご計画、イスラエルの救いについての内容です。8章の終わりは、キリストの愛から誰も何も引き離せるものは存在しないという賛美が高らかに歌われて、喜びの絶頂のように終わりましたが、9章の最初は、それとは逆に、パウロ自身の悲しみが吐露されています。この極端な変化のゆえに、別の人が追加したとか、他の書簡が合体した等と言う学者もありますが、決してそうではないと思います。

喜びの一方で悲しみを背負う

 ここで言われていることは、私たちの心の中にも起こっていることのように思えます。神のことを知って、あるいは神を求めて生きるようになって、神の子どもとされている喜びや幸いを知っていても、それは確かにとてつもなく嬉しいことなのですが、私たちは、どこか心の底で、有頂天にはなれないところがあるのではないでしょうか。それは、自分は聖書を学び、喜んで賛美をささげて、多くの恵みを主から受けているが、私の家族はどうか、あるいは私の親類や身内はどうか、また友達はどうか、親しくしているあの人この人は、この素晴らしい恵みを経験出来ていないのではないか、という思いが、ふと心をよぎるからではないでしょうか。パウロは、諸教会の歩みが健全で守られて歩むことに多くの祈りをささげ、労していましたが、同時に、救われていない人たち、特に同胞に対する熱い思いを持っていました。それが彼の心にある「大きな悲しみ」であり、「絶えざる痛み」でした。1章14節の「返さなければならない負債」の中には、同胞のことも含まれていると思います。


2,パウロの情熱—私たちの目標とする生きる姿勢は?

のろわれた者となることさえ願うパウロ

 しかも、その思いは、ここで強烈な言葉で告白されています。「この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」(3節)。「のろわれた者」とは、ギリシア語で「アナテマ」という言葉で、これは神への誓願の言葉で使われるもので、「神に引き渡されて、滅ぼし尽くされるもの」を意味しています(参照;Ⅰコリント12:3等)。
 アナテマという自分が滅ぼし尽くされても良いとまで言うことは、別の表現に変えると、あなたのためなら地獄で滅んでも良い、という感じでしょうか。さらに、この「願いたいのです」は、原語では未完了過去形という時制になっていて、反復や、習慣的に行うことを意味しています。つまり、パウロは、何度も、そう願ったということです。ここに、真の執り成し手の姿を見ることができます。

執り成し手の精神

 旧約聖書のモーセは、まさに真の執り成し手でした。詩篇106篇23節に「もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。」とありますが、これは、出エジプト記32章にある出来事から記されています。シナイ山でモーセが十戒の石板を授けられている間に、それを待ちきれず、民が子牛の形をした偶像を鋳物で造り、祭壇を築いて、礼拝したのです。神は、御怒りをもって、さばきをくだそうとされました。しかし、モーセの必死の嘆願によって、彼らは滅ぼし尽くされることを免れたのです。モーセの執り成しの祈りを一部引用しましょう。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出エジプト32:31〜32)。これは、パウロの言葉とよく似ています。


3,パウロの賛美—私たちはどう賛美をしているのか?

イスラエルの民がなぜ救われていないのかというジレンマ

 4〜5節をよく見ると、このパウロの嘆きと悲しみは、単なる愛国心ではなかったことがわかります。神が、全世界を救い、神の幸いなご支配を満たすために、アブラハムを選び、その子孫であるイスラエルの民をお選びになった歴史的事実を振り返って示します。「子とされること」「栄光」「契約」「律法」「礼拝」「約束」「父祖たち」「キリスト」の8つのことを挙げて、これらすべては本来、イスラエルに与えられたものであることを明言します。
 それなのに、彼らの多くは、イエス・キリストに対して、心を閉ざしてしまっているという現実があります。神は、イスラエルの民を選んでおきながら、なぜこのようなことになってしまったのか、そしてこれからイスラエルの民はどうなっていくのか、神のご計画は正しいと言えるのか、と言ったような難しい課題に対して、この9〜11章でパウロは、聖霊に導かれて説き明かしていきます。

キリストは万物の上におられる神と賛美する

 いずれにしても、パウロの苦悩は、一見、解決できないような矛盾を感じるものでした。神は愛である方であるのに、どうしてこのようなことになるのか、選んだ民をお見捨てになるのか、いったい、神はなぜこのような事態を許しておられるのか。苦しい心の葛藤がパウロの心を渦巻いていたと思います。しかし、5節をよく読むと、最後は賛美で締めくくられています。人間の側から、いくら考えても容易には答えは見えて来ません。しかし、キリストを見よ、とパウロは語り、賛美するのです。「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン」。キリストを万物の上におられる神であると告白できる信仰があるならば、ものの見方は変えられ、神のご計画の視点から、何事でも見て考えていくことができるようになります。矛盾に感じられることの中にあっても、神は神であられ、神のご計画はすべての事柄、時代を貫いていることが賛美をもって告白できるとパウロは言っているのです(参照;ローマ11:36)。