ヨハネ福音書 9:24-41
礼拝メッセージ 2018.1.14 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
目が癒された男性の変化
イエスを出会って目を癒された男性は、そのイエスについて「知らない」(12節)から「「預言者」(17節)へと変わり、「神のもとから来た人物」(33節)と告白するに至りました。ユダヤ人たちがイエスを拒絶している態度や、この男性の両親がユダヤ人他たちを恐れた態度とは対照的です。イエスを大胆に告白し、逆にユダヤ人たちを納得させようとします。結局は、この男性は会堂を追放されてしまいます。
「人の子」との出会い
イエスはこの男性に会いに行きます。そして「人の子を信じるか?」と問います。この言葉の解釈は簡単ではありません。「人の子」は、通常は人間を意味します。また、イエス自身が自らを指す時に「人の子」という言葉を用いることがあります。他にも、終末時に神から遣わされる使者としてユダヤ人たちが理解する場合もありました。この聖書の箇所では、イエスは「人の子」という言葉をこの男性との信頼関係を結ぶ鍵言葉として用いていると同時に、パリサイ派との最後の対決における「裁き」につながる言葉として用いているようです。この世界に生きる人々に対して神の評価を示し、その神の評価を理解させ、神の価値観に基づく世界をもたらそうとする者です。ここには、価値観の逆転があります。目が見える者は見えないようになり、目が見えない者は見えるようになるのです。
見える者、見えない者
見える、見えないという主題(モチーフ)はヨハネ福音書において重要です。一貫していることは、見ていること(あるいは、見えていると思うこと)に対して否定的な評価を与え、見えてない(あるいは見えていると思わないこと)に対して積極的な評価を与えていることです。だから、見えないようになれというわけではありません。見えていないことを認める、ここから始めるべきであるとヨハネ福音書は語るのです。本日の聖書箇所で見えていると思っているのは、ユダヤ人たちです。彼らには神の意思としての律法が与えられていましたが、神が律法を与えた真意を見逃していました。神が律法を与えたのは、神の民が神を愛し、人々が互いに大切にし合って生きていくためです。そこに神の栄光が現われます。律法を人々の裁きの道具に使っても神の栄光は現われません。ユダヤ人たちは神の栄光を現わし方が見えていると思っていました(安息日に何もしないこと)が、イエスから立場からすれば、実際には神の意思が見えていない者でした。また、見えていないことが分からない者であり、見えていないと指摘されることを恐れる者たちでした。一方、見えていない者がイエスの業を経験し、その救いの意味(イエスを信頼して生きていくこと)を理解するようになります。それが、この癒された男性の変化していく状況に表現されています。
キリスト者は信仰生活が長くなるほどに、見える者になっていきます。しかし、その道は2つに分かれます。一つは、見えてきたことですべてが見えている(あるいは少なくとも、自分から後に来る者よりも見えている)と考えるようになる道です。もう一つは、見えてきたことで、まだ見えていないことを認める道です。私たちは、すべてが見えているのは神だけであることをまず認めたいと思います。神を信じる者であっても神になるわけではなく、やはり見えていないことを認める所から始めるべきです。実際、ヨハネ福音書は、多くのキリスト者が実際にはイエスを見ていないことを認め、見えていないからこそ信頼するように勧めるのです。見えていないこと、あるいはそれを認めることは恥でもなんでもありません。それは、イエスを知ること(従うこと)の始まりなのです。