「与えられた恵みに従って互いに仕える」

ローマ人への手紙 12:3ー8

礼拝メッセージ 2018.2.18 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,キリストのからだとして生きる

キリストのからだのメンバーとされる

 UBSと呼ばれるギリシア語テキストでは、1〜8節をひとまとまりとして、「キリストにある新しい生活」(The New Life in Christ)という表題が付けられています。神の真実と恵みがわかり、福音が心に届いた瞬間から、私たちのニューライフが始まります。それは、神に自分をささげ、明け渡して、歩む生活です。12章1節で「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と、神のあわれみを知り、経験した私たちに対して、勧められました。「あなたがたのからだを…ささげなさい」と言われたことが何を意味するのかが、この3節以降でさらに明らかになって来ます。からだをささげて生きるとは、3節以降で明らかにされていることは、もはやあなたのからだはあなた自身のものではなく、キリストのからだの器官とされていることを自覚して生きることなのです。それは、ひとりで生きることをやめることを意味しています。からだとして生きるのです。
 4〜5節の「器官」という言葉は、英訳聖書では「メンバー」(member)という日本語でもよく知られた言葉で訳されています。メンバーは、からだの一部や器官を意味する言葉でもあるからです。でも、一番よく使われる意味は、いわゆるメンバーのことで、教会の一員や教会員という意味です。たとえば新国際訳聖書(NIV)は4〜5節は次のとおりです。「私たちそれぞれが多くのメンバーによる一つのからだであり、これらのメンバーがすべて同じ機能を持っていないのと同様に、私たちはキリストにあって、多くのかたちである一つのからだであり、それぞれのメンバーが他のすべてのメンバーに属しているのです。」キリストのからだのメンバー(器官)として、あるいはそのことを強く覚えて、主にあるニューライフに入っていただきたいと思います。

互いに必要なメンバーとされている

 自分がキリストのからだのメンバーであることを認識すると、自分に対する見方と他のメンバーに対する視点が変わってきます。まず自分に対しては、自分ひとりでキリストのからだ全部になろうとする必要も誘惑もなくなります。3節には「思い上がるな」「慎み深い考え方をせよ」とあります。これがまさに自分ひとりでキリストのからだとなっているかのように錯覚してしまうことです。これは牧師である私が一番気をつけなければいけないことです。M.ルターの記した「牧師控室での祈り」を肝に銘じたいと思います。「主なる神よ、あなたは私をあなたの教会の中で、牧師として立ててくださいました。あなたは、私がこの大きな重い職務を正しく遂行するために全くふさわしくないことをご存じです。また、あなたの助言がなければ、私はとっくのむかし、すべてのものと共にこの務めを、だいなしにしてしまったことでしょう。それで私はあなたを呼び求めるのです。…どうか私をあなたの道具として用いてください。愛する主よ、どうか私をほっておくようなことだけはしないでください。私がひとりでいるなら、私はたちまちあらゆるものを一緒にだめにしてしまうでしょうから。アーメン」(『ルターの祈り』石居正己編 聖文舎)。
 また逆に自分に欠けや不足があるように感じて劣等感を持つ必要もありません。私たちは誰でもひとりで何でもできて、完成できるようにはなっていないのです。不足こそがかえって仲間の必要性に気づかせ、各々が異なった器官としてその役割を果たすために互いがあることを思い起こさせてくれるのです。


2,賜物を分け与えられた者として生きる

賜物は神の恵みゆえに与えられた

 「賜物」という言葉はギリシア語でカリスマです。そしてカリスマという言葉は、「恵み」という言葉、カリスから来ています。ですから、賜物は神の恵みによってひとりひとりに与えられているもので、誰も自分の賜物を誇ることはできないし、他のメンバーの賜物と比較することも愚かなことなのです。聖書を学んでいくうちに私が教えられてきたことは、賜物というのは履歴書に書けるような特技や資格のようなものだけではないということです。それらも含まれるとは思いますが、そういう目に見えるものだけではないということです。また、キリストのからだの部分とされている人は誰でも、必ず何かの賜物が与えられているということです。実際、賜物が何もないという人はいないのです。6〜8節にも賜物の一部が紹介されています。預言、奉仕、教えること、勧めること、分け与えること、指導、慈善の7つです。他の聖書箇所では、Ⅰコリント12章8〜10、28節、エペソ4章11節、Ⅰペテロ4章11節などです。これら聖書に書かれている賜物のリストは、私の理解では、賜物の種類全部を網羅している訳ではないということです。たとえばこういう賜物があるというものが挙げられていると思います。あなたに与えられた賜物も、聖書に記されているこの賜物であると言えないかもしれませんが、それは確かに神の恵みによる賜物ではないでしょうか。

神の恵みをむだにせず、むしろ活用する

 すべてメンバーには賜物が神の恵みによって与えられています。与えられている理由は互いに仕え合うためです。キリストのからだとして健全に成長して、神の栄光を現すためです。ですから6節以降で明らかにされていることは、賜物を用いなさい、使いなさい、ということです。賜物はタラントのたとえにあるように、大事に握りしめて、土の中に埋めてはいけません(マタイ25章)。また、それは自慢して飾るための置き物でもなく、実際に活用して主の教会の建て上げに役立てられるために与えられたものです。パウロはコリント書の第二で次のように勧告しています。「私たちは神とともに働く者ととして、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」(Ⅱコリント6:1)。神の恵みをむだに受けることとは、神から大いなる恵みを受けているのに、その賜物を活用せずに、神のご好意を無にしてしまうことです。主は言われました。「すべて、多く与えられた者は多くを求められ、多く任された者は多く要求されます。」(ルカ12:48)。賜物には、責任が伴うのです。英語で責任は「レスポンシビリティ」(responsibility)と云いますが、まさに責任とは、任せてくれた方への応答(レスポンス)です。神のあわれみのゆえに、愛と真実のゆえに、主からの語りかけに対して、喜んで応答しましょう。