「偽りなき愛の実践①」

ローマ人への手紙 12:9ー21

礼拝メッセージ 2018.2.25 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,最高の生活ルールは愛(9節)

 9〜21節のギリシア語本文(UBSテキスト)の表題は「クリスチャン生活のルール」となっています。テレビで「7ルール」という番組がありますが、誰でも生き方のルール、流儀といったものを持っていると思います。私はこういう生活スタイルを持っている、あるいは生活ルールに従っているというようなことです。
この聖書箇所で言われているルールは、その人特有のこだわりとか、習慣を超えたものです。J.マッカーサー師の注解書では、この箇所を「超自然的な生活」としていました。ふつうではできない、超自然的なあり方です。「そういうわけですから」(12:1)と記されている、11章までのところで明らかにされてきた、神のあわれみや神の義という主の十字架を通して示された愛を知った人のみが気づき、聖霊を通して可能となる生き方です。しかし、それは自然にそういう生き方になっていく訳ではなく、信仰をもって聖霊の力を受けつつ可能となる歩みです。その超自然的な生き方のルールの根本は何かと言えば、総合すると「愛」に要約できます。なぜなら、私たちが信じている神は、愛なる方だからです(Ⅰヨハネ4:8)。神のあわれみと真実を知った者は、その愛に応答して生きることになるからです。では、愛に生きるとはどういう生き方になるのかと言えば、それが、この9節以降に記されている多彩な内容なのです。


2,愛には偽りがあってはならない(9節a)

 9節冒頭は「愛は…」で始まっていて、有名なコリント人への手紙第一13章を思い起こさせます。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:4〜7)。このⅠコリント13章を見ながら、ローマ12章9節以降を読むと、重なる内容であることがわかります。でも、ローマ12章のほうは「愛は〜です」と繰り返すのではなく、一言でズバリ「愛には偽りがあってはなりません」と記されています。これは確かに、愛というものが持っていなければならない本質を明らかにしています。「偽りがあってはならない」という言葉は、原語では一つの単語で、偽善という言葉に否定辞が付いています。だから、直接に言い直せば、「愛は偽善ではない」ということになります。そして偽善を表す言葉は、元々、ギリシアの劇場で仮面を付けた俳優たちが演じることを表す言葉ですから、ギリシア語の辞書には、この「偽りがあってはならない」というのは、「愛は演技しない」という意味であると書いていました。英訳聖書では、さらに進んで、愛は「本物」(genuine)とか、「誠実」(sincere)と訳しています。愛することが一番大切であることは誰でもわかっているのですが、愛の一番大切な前提は、それが本物であることです。どんなに美しい愛であっても、見せかけのものであれば、何の意味もないばかりか、それは人に対するひどい裏切り行為になるからです。


3,愛は試されながら発揮される(9b〜10節)

 それで次の「悪を憎み、善に親しみなさい」という文章が続きます。悪と善について記す理由は、愛というものが、まさに悪と善との間で試されるものだからです。愛は、単なる理想や、ロマンやフィクションではないからです。悪が存在し、夢も希望も打ち砕いてしまう現実世界のただ中にあって、確かにその存在を明らかにして、発揮されるものだからです。「悪を憎み」の「憎む」という言葉は、身震いして避けるという意味があると言われています。また「善に親しみなさい」の「親しむ」は、膠で貼り付けたようにピッタリくっついて離れないというニュアンスがあります。本物の愛は、悪を憎悪して退け、善に密着するものです。そういう本当の愛を身につけるために、これら9節以降の言葉があるのです。これらの記述の中に見られる真のあり方を見ることで、自分の生き方のルールをチェックできるのです。
 10節の言葉は、愛するということは、他の人に対する見方に表れることが述べられています。「尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい」とは、愛は高慢にならず、謙遜であることが明らかにされています。他の人に対して関心を持ち、敬意の気持ちを抱くことが、人を愛することの基本なのです。10節の初めに「兄弟愛」と書いていますが、これは愛が、神をともに信じて礼拝している仲間の間において、まず現されるものであることを教えています。役割、性別、年齢、経済などの違いによって、自分が人よりもまさっていると勘違いせずに、むしろへりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いましょう(ピリピ2:3)。


4,愛は燃えて行動する(11〜13節)

 11節からの文章を命令形でなく、原文通り、平叙文のようにして読んでみると「勤勉で怠らず、霊に燃えて、主に仕え、望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励み、聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしている」。こんな生き方をしている人を、あなたはどんなふうに心に思い描けるでしょうか。私は、静かに燃えているような人物を思い浮かべました。クリスチャン生活というのは、別に自分の生き方を大々的に宣伝する必要はなく、目立つ必要のないものです。でも、消極的に影を潜めて生きるかと言えば、全くその逆です(参照;Ⅱコリント6:8〜10)。いつも燃えているし、希望に輝き、喜んでいるし、忍耐深くあり、祈りに専念して、何とか聖徒の必要に応えようと努めて、ホスピタリティにあふれているのです。
 「霊に燃え」(12:11)とは、霊において沸騰しているという意味です。クリスチャンにも、教会にも霊的温度というものがあると先輩牧師から聞いてことがあります。沸騰せよと言われても、沸点を保ち続けるためにはどうしても燃やし続けてもらう必要があるのです。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15〜16)とあるように、私たちも悔い改めて、主に扉を開き、お迎えしましょう。そして霊において燃やしていただきましょう。