ローマ人への手紙 13:1ー7
礼拝メッセージ 2018.3.18 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,良い市民生活者として生きる
この聖書箇所の背景
今日の聖書箇所は、ヨーロッパの歴史の中で「王権神授説」の論拠として利用されたこともありました。国王の絶対権力は、神から授かったものであるから、臣民たちはその王権に対して、何の否定も反抗もしてはならないという、為政者に都合の良いかたちで使われたようです。そのような誤解を嫌う人たちが、ここで使われている「権威」という言葉を、目に見えない霊力や、御使いたちの勢力について語ったものとして、解釈し直したこともありました。しかし、明らかに、ここで言われていることは、地上の国家や政府に対してのことが述べられています。
パウロは、なぜこのようなことを書いたのでしょうか。多くの解説書によれば、当時、熱狂主義的な人々が、国家をないがしろにし、制度的な社会のあり方を無視したり、軽視するようなことをしていた、という背景があったようです。驚くべきことに、パウロがこれを記した当時、ローマ帝国は、悪名高きネロが皇帝として君臨していました。やがて、皇帝ネロによって、キリスト者は厳しい迫害を受けることになります。しかし、皇帝がネロであろうと、カリグラや、デキウスであろうと、パウロはこの13章1〜7節の理解を人々に教えたと、私は思います。
神によらない権威はない
なぜなら、キリスト・イエスを「主」として生きる神の民である教会は、当然のこととして、良い市民生活者であるはずと彼が確信していたと思うからです。1節を見ましょう。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」。これは確かに驚くべき表明であると思います。なぜなら、どこの国であろうと、またどんな指導者や王であっても、その権威や力でさえも、神によって存在しているという言明だからです。
しかし、権力を持っている者たちが横暴なやり方で人々を支配することを、この箇所が承認していると理解するのは間違っています。その支配者が権威を乱用し、人々を奴隷化したり、私腹を肥やすために搾取するようなことは絶対に許されません。というのは、人間社会においての絶対主権者は、王様でも、政治指導者でも、政党でもなく、全知全能の創造主である神おひとりであるからです。いと高きところにおられる神が、全世界の人間の政(まつりごと)もすべての営みも、それらを上からしっかりとご覧になっているのです。この箇所では市民の目線で注意と戒めが語られていますが、社会において何かの権威を持っている人たちは、自らもいつの日か神の厳しい審判を受けるべき存在であることを覚えて、正しくその責務を果たさなければならないのです。
クワイエット・ライフ
では、なぜこのような勧めが必要であるかと言うと、「それは、私たちが敬虔に、また威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため」(Ⅰテモテ2:2)です。パウロは別の箇所で、こう述べています。「私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」(Ⅰテサロニケ4:11〜12)。この「落ち着いた生活」は、英語訳ではクワイエット・ライフ(quiet life)と訳され、上記のⅠテモテ2:2にある「平安で静かな一生」につながる表現です。そのような静かで敬虔な生活が、周りに良い影響を与え、証しの立つ歩みとなっていきます。
納税などの義務を果たし(6〜7節)、自らの手で働き、仕事に身を入れる生活を、聖書は奨励しています。神はそれを喜んでくださいます。ただ、重要なことは、この世にある権威や権力にのみ目を注いで従うのではなく、その上におられるお方、本当の主権者であるお方に目を向けることです。真の権威をお持ちの方に従うゆえに、地上における責任を果たし、外の人々に対して、りっぱにふるまえるように努めなければならないのです。
2,天に国籍のある者として生きる
人に従うより、神に従うべき
しかし、パウロがこの1〜7節で伝えていることはそれだけではないと私は思います。それは、この書全体の文脈から、あるいはパウロの書簡全体から導き出せるメッセージです。それは、ローマ市民として、正しく義務を果たして生きるというだけのことではもちろんありません。12章の講解が始まってから、度々しているように、12章の最初に戻るということが大切です。12章1〜2節を見ましょう。この2つの節を読んでから、13章を読むと、見逃してはならない、メッセージの中心点が明らかになります。それはイエスを主としている私たちは、誰のものなのか、どこに属しているのか、ということです。私たちはすでに神のものであり、この世に属しているのではなく、神に属している者なのです。
神に逆らう権威に対して
それがわかると、13章の文章を、好き勝手に人々をコントロールするための根拠には到底できないはずです。そして当然のことながら、真の主権者である神の御心を損なうようなことを国家などの権力者や権威を持った機構が私たちに命じたとしても、それに対しては、「この世と調子を合わせてはいけない」のです。その場合に、覚えておくべき言葉は使徒たちが宣言した次のことです。「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29)。
では、神の御心に反する国や社会に対して、私たちはどのように振る舞うべきでしょうか。それもやはり12章に戻って、19節以降の「自分で、復讐してはいけません」という命令に沿った理解が必要です。パウロ、そして聖書はあくまでも、武力を用いての革命や闘争を勧めてはいません。どんな場合でも、暴力に訴えることはせず、善をもって悪に打ち勝つように命じています。
天に国籍がある者として私たちは生きるのです(ピリピ3:20)。
『シャローム 神のプロジェクト』には次のように書かれています。「暴力的な抵抗をすべきではないと、パウロはキリスト教会に語ります。例えば、政治的権威への暴力的反乱や「キリスト者国家」設立の試みなどです。…私たちは国家の「中」に生き、この世界と適切な関係を結びます。しかし、この世界と違った価値観と原則によって生きています。」(B.オット著 杉貴生監修 南野浩則訳 いのちのことば社 p.153)。