ローマ人への手紙 13:8ー14
礼拝メッセージ 2018.3.25 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,愛の負債を負いなさい
愛という負債
12章9〜21節を「偽りなき愛の実践」ということで以前に見ました。そこには神のあわれみを知った私たちがどのように「愛」を実践するのかが説かれていました。そして13章の数節を書いたあと、パウロはまた13章8節から「愛」のテーマに戻って来ます。繰り返し語る理由は明らかなことで、「愛」が私たちの信仰と生活の中心であるからです。しかし、全く同じことを同じ語り方で書いている訳ではなく、少し見方の角度を変えて、さらに必要なことを教えています。7節で「だれでも義務を果たしなさい」とありましたが、この「義務」と8節の「借り」は、どちらも「負債」を意味する同じ語が使われています。
私たちは神の愛を知っている者として、この世に対して、確かにすべての義務を果たし、また何の借りもあってはいけないと命じられています。これは単に借金をすべきではないということではなく、前回も見ましたように、証しが立てられるような生活を心がけるべきであるということです。でも、それを受けて、パウロの筆は、「負債」や「借りがある」ということを書いた時に、どうしても次に言い添えるメッセージがありました。誰に対しても借りがないとは言っても、「互いに愛し合うことについては別です」と。
互いに関わること
もっと直接的に表現すれば、「愛の負債を負いなさい」ということです。他人に迷惑をかけるな、他人の世話になるな、と子どもの時から教えられて来た方が多いのではないでしょうか。だから、日本には遠慮するという奥ゆかしい文化があります。でも、「互いに愛し合いなさい」という主の命令に従おうとするとき、この日本的な奥ゆかしさが障害になってしまう時があります。なぜなら、愛し合うということは、人と人との距離が近くなければ成立しません。ですから、遠慮したり、世話を受けることを断ることで、相手からの愛を拒むことになってしまいやすいし、しかも相手と距離を取り過ぎて、こちらからもその人を愛することができなくなってしまいます。要するに、迷惑をかけることもありませんが、愛することも、愛されることも、できないのです。
実際、愛するというのは、互いにとって、重荷であり、負債を背負うようなものです。愛されるという負債は、完全に返済も返却もできません。ずっと負債であり続けます。
人との関係が神との関係
人と人との水平方向の関係性が、垂直方向である神と自分との関係性に直結しています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」(Ⅰヨハネ4:7−8)。さらに「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(同4:20)とあります。イエスが私たちに示された愛も同じでした。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」(ヨハネ13:1)。このヨハネ13章には、弟子たちの足を主が洗われる話が書いてあって、ペテロが自分の足を洗おうとされるイエスに対して、「決して私の足をお洗いにならないでください」と拒もうとします。遠慮したのです。ところが、イエスはこう答えられたのです。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(同13:9)。もちろん、この言葉には霊的に清くすることの意味が含まれていますが、主と私たちの関係においても、また、他の人たちとの関係においても、愛の関係が成立するためには、愛を喜んで受けなければならないし、愛をもって応答しなくてはならないことを示す話であると思います。このような互いを愛する関係をもって生きる時、十戒で命じられている「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」が満たされます。
2,今という時を知り、目を覚ましていなさい
今という時を知る
パウロはもう一つのことを語ります。それは、今という時をよく知って、信仰の目を開いて、目覚めておくように、ということです。一見、8〜10節と11節からとは、話の内容が急に変わっているように見えますが、実はつながっています。11節の最初を「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい」と書いています。この「このように」という言葉は確かに原文にあって直訳すると「このことを」となっています。「このこと」とは何を指すかというと、8〜10節の「愛せよ」という命令のことであると思います。互いに愛し合うという愛の生き方を実践する理由として、終末に向かっていることを示しています。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。」(Ⅰペテロ4:7−8)とペテロも書いている通りです。11〜14節で、天の時を数えて生きるように勧める第一のことは、11節の「今がどのような時か」を知ることです。パウロは、「夜はふけて」と言います。「やみのわざ」「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみ」と挙げられていることは、すべて「今」という時代を表現しています。パウロは「今」を「夜」とか「やみ」であると言うのです。
夜はふけて、昼が近づいている
しかし、暗黒がより強く支配している時代にあるからこそ、夜が深まっていると気づかなくてはなりません。夜はいくら深まり暗くなっても、夜で終わることはありません。むしろ、夜がふけると光り輝く朝に近づいています。「眠りからさめるべき時刻がもう来ています」「今は救いが私たちにもっと近づいている」「夜はふけて、昼が近づきました」と、もうすぐ朝になる、光の差す日中となることが迫り来ていることを明らかにしています。夜の暗闇の中にいるから、やみのわざ、罪の行いに染まるのではなく、反対に、やみのわざを打ち捨て、光の武具を着け、正しい生き方をするようにしていくのです。それは結局、最後の節にある通り、主イエス・キリストを着ることになります(ガラテヤ3:27)。主を信じることによって、私たちは、キリストという着物に完全に覆い尽くされたのです。その場に応じて服を着替えることがありますが、私たちの外観は着ている物で変化し、それらしく見えるのと同じように、キリストという晴れ着を着せていただき、義と平和と愛とに生きるようにしようではありませんか。