ローマ人への手紙 14:13ー23
礼拝メッセージ 2018.4.22 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,互いを建て上げるために、つまずきとなるものを置かないようにしよう(13節)
互いを建て上げる
19節「お互いの霊的成長に役立つこと」と書いている文章は、脚注にあるように「お互いを建て上げること」が直訳です。パウロは主より与えられた使徒としての権威を、教会や人々を倒すためではなく、建て上げるために与えられたものとして語りました(Ⅱコリント10:8,13:10)。ローマの教会にあった難しい問題について、何のためにこのことを書いているのかを述べたのです。そしてこの「互いを建て上げる」というパウロの動機は、教会の人たちみなが持つべき目的であり、原則であることを示しているのです。
妨げ、つまずきになるもの
「妨げ」「つまずき」とは、信仰生活にとって、つまずきとなり得るモノや事柄です。「つまずき」と訳された言葉は、スキャンダルの語源となった語で、支え棒を置き、動物がそれに触れると外れて捕らえる仕掛け罠のことです。ここでは比喩的に、人を捕らえて罪に落としたり、信仰を阻害する原因を置くことを表しています。信仰の弱い人たちと強い人たちとの間に、各々が自分の信仰理解から来る考えやあり方を、互いに示す際に、気づかないうちに悪意や罪の心が侵入していて、置く必要のない妨害物を相手の前に仕掛けてしまっていることがあったのではないかと指摘しているのです。
2,互いを建て上げるために、兄弟を悲しませたり、傷つけないように注意しよう(14〜16節)
食物の問題についての答え
14節がこの食物の問題についてのパウロの見解であり、また新約聖書が明言している真理です。「私は主イエスにあって知り、また確信しています。」という強調がそれを表しています。「それ自体で汚れているものは何一つありません」。これは、マルコの福音書で、主イエスが語られたことに合致しています。「『外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心に入らず、腹に入り排泄されます。』こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。」(マルコ7:18〜19)。しかし、これは旧約時代からの長い年月に渡って、食物規定を守って来た人々にとって、簡単に変えてしまうことができない原則でした。ペテロは幻の中で、大きな敷布の中にある汚れた動物を「屠って食べよ」と促されますが、「それはできません」と繰り返し拒んだ出来事(使徒10章)を見ても、そのことがよくわかります。ですから、すべての食物はきよい、ということが正しい真理であっても、信仰の強いとされる人たちが、弱い人たちに向かって、「もうすべての食物はきよいとされているのに、どうしてそれがわからないのか」と言って、彼らを責めることは間違っているとパウロは言います。
愛によって歩む
なぜなら、それは「信仰の弱い人」と呼ばれる人たちのことを考えていないからです。そういうことで、心痛む人がいる(15節)ことを配慮できないのなら、それは「愛によって歩んでいない」ことになってしまいます。彼らも「キリストが代わりに死んでくださった」人なのです。つまずきを与えることを15節では「滅ぼす」という言葉まで使って、それがひどいことであることを強調しています。自分の持っている信仰理解を保持するために、ときに私たちは相手に対して、攻撃的になったり、軽蔑の言葉を語ってしまうことがあるかもしれません。旧約聖書のヨブ記を読むと、苦難のどん底にあるヨブを慰め励ますために、3人の友人が来ますが、3章以降の友人たちのヨブに対する言葉を読むと、慰めの言葉になっていないばかりか、どちらかと言えば、ヨブを責めているように見えます。それは、自分の信仰理解を守るためであったと思います。義なる者が不幸や災いに遭うはずはないと彼らは信じていたかったのです。
3,互いを建て上げるために、聖霊による義と平和と喜びを追求しよう(17〜18節)
食物の論争の中で、大切な視点が示されています。「神の国」です。「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです」(17節)。ここでパウロは、教会と言わず、「神の国」と書きました。「神の国」とは、神が支配し統治されることで、神の御心とご計画が十分に行われるところを表します。教会というよりも、もっと広く、時間や時代としても長く、大きな視野で生きるために、「神の国」と記したと思います。「神の国」は飲み食いではなく、聖霊のご支配の中にあって、義と平和と喜びがその中心なのです。18節には、「神の国」ということを受けて、「キリストに仕える」ことが記されます。「神の国」の王であるキリストに、私たちは仕えるのです。何を食べるかどうかは、「神の国」の大きな視点に立つならば、それは小さなことなのです。その小さなことのために、「神の国」の王であるキリストに仕えることに支障が出てはならないのです。
4,互いを建て上げるために、神の御前に自分の信仰を持とう(19〜23節)
19節から23節で述べられているのは、この問題のまとめです。「すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです」(20節)の文章で言われていることは、権利と責任ということでしょう。肉を食べても良いと考えていた人たちは、肉を食べる権利だけに目を向けていました。パウロは、自由の中には、権利をあえて行使しない自由もあることを教えています。愛によって歩むために、証しを立てるために、互いを建て上げるために、「〜しない」という自由を使うことが信仰によってできるのです。その上で、自分の信仰理解を、神の御前で持つのです。22節の「神の御前で自分の信仰として」というのは、言うならば成熟した信仰者のあり方です。誰かに言われたから、「〜する」あるいは「〜しない」というのではなく、自分で御言葉を読んで考え、神の御前に立つ、責任ある一人の人間として、また信仰者として、信じて歩むのです。