ローマ人への手紙 15:7ー13
礼拝メッセージ 2018.5.13 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,キリストを見よ(7〜8節)
神の栄光のために歩まれたキリスト
大正時代、内村鑑三がロマ書の連続講演を行いましたが、その時、この書を大きな建築物に見立てて説明しています。それによると、1章17節までが表門と廊下で、続く1章18節から15章13節までが、3棟に連なる本館です。そして15章14節以降が裏門になっています。そういう見方で行くと、本日の聖書箇所は、本館という中心部分の最後のところになります。
本日の聖書箇所は、いろいろな表現でまとめることができますが、パウロは彼らの信仰の視点を大きく転換したかったのではないかと、繰り返し読んでいく中で感じました。何を見つめて歩むべきなのか、最初にキリストを見るように語り、次に聖書に注目するように述べ、最後に希望の神に目を注ぐように祈っています。7〜8節で14章までで繰り返された命令を念押しするかのように言います。「互いに受け入れ合いなさい」と。互いに受け入れ、互いに建て上げ、互いに一致してくために、まず、キリストを見なくてはならないのです。ここでは、キリストが、私たちを受け入れてくださったことを忘れてはならないと語ります。主がまず、私たちを愛し、赦し、十字架にかかってくださったのです。しかも、それがどういう御思いによって、なされたことであるのかといえば、それは「神の栄光のため」であったと書いています。
神の栄光とはどういうことなのか、それを一言で説明することは簡単ではありません。例えば、神ではなく、人間が栄光を受けると考えてみると、わかりやすいかもしれません。人間の栄光は、誰かが得をしている一方で、他の人たちが損をしているということが起こります。これは個人でなくても、ある国だけの栄光とか、ある会社の栄光を求めると考えてもわかることです。しかし、神の栄光は、全被造物の喜びとなるものです。すべての人がともに喜べるのです。キリストは、十字架のみわざを御父の栄光を現すためにしてくださいました。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」(ヨハネ17:4)。
神の真理のために歩まれたキリスト
神の栄光と関連していますが、もう一つ、キリストが地上生涯を歩まれた大切な行動原理がありました。それは「神の真理」です。神の真理を現すために、キリストは、「割礼ある者たちのしもべとなられました」。主は、ローマでも、中国でも、インドでもなく、東洋と西洋の十字路のような場所、イスラエルで生まれてくださいました。そして律法の下にある者として、生涯を歩まれたのです。それは、「父祖たちに与えられた約束を確証するため」でした。つまり、旧約聖書にある神の預言通りに、その約束に従って、神の御心を行うためでした。キリストは、神の栄光のため、神の真理のうちを歩み通されたのです。そこにはっきりと認められるのは、御父への従順とへりくだりでした。このキリストの御姿をしっかり見つめて歩むとき、人と人との溝は乗り越えられ、壁は打ち破られ、一つとなることができるのです。
2,聖書を見よ(9〜12節)
旧約聖書全体が示す神のご計画
今まで、信仰の強い人と弱い人という分け方で、偶像に捧げたものかどうかを気にせずに肉を食べる人たちと、それを気にして野菜しか食べない人たちとのことを語っていましたが、この7節からでは、別の捉え方になっています。それはイスラエルと異邦人という区分の仕方です。イスラエルと異邦人という、新約時代の教会で取り上げられてきた、救いの歴史における大きな枠組みのことを示すことによって、より大きな視野で、人と人との違いを示して、そんな大きな壁に見えるものであっても、乗り越えられるし、必ず一致できることをパウロは語っています。引用されている箇所は、多少重複がありますが、よく見ると、律法の書から申命記、預言の書に分類されるイザヤ書やサムエル記、諸書の代表である詩篇から、それぞれ引かれています。律法、預言者、諸書とは、旧約聖書の大区分で、その各々から引用したのは、旧約聖書全体が証言していることを明らかにするためでした。
イスラエルも異邦人もともに主をほめたたえよ
ここで引用されている聖書の言葉はどれも、喜びに満ちた、礼拝へと導く内容です。イスラエルも、異邦人も、一つにされて、ともに主を喜び、賛美するのです。「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」(10節)、「すべての異邦人よ、主をほめよ。すべての国民が、主をたたえるように。」(11節)。神は、全世界の主です。
3,神を見よ(13節)
希望の神
最後に、13節で「希望の神」と祈っています。実は、15章全体に、同じようなかたちで、パウロは祈りの言葉を記しています。「どうか、忍耐と励ましの神が…」(5節)、「どうか、希望の神が…」(13節)、「どうか、平和の神が…」(33節)。忍耐され、励ましを与える神、希望を抱かせてくださる神、平和を導く神、私たちが信じ、求めている神がどういうお方なのか、あらためて確認することができます。ここでは、特に、「希望の神」です。希望は、人間の生きる力そのものです。希望のない人は、やる気を失い、疲労感に満たされ、生き生きとした喜びがありません。希望を失った状態が、失望であり、絶望なのです。しかし、キリストを信じる者は、決して奪われることのない、そして失ってしまうことのない確かな希望を持っています(参照;ローマ5:3〜5)。
あふれる希望
しかも、この15章13節では、少しの希望ではなく、「聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように」とあります。「あふれる」というのは、十分以上ということです。あふれて、他の人にもたくさん分けてあげられるぐらいになるということです。これは、あふれる希望を持っていることを皆が自覚できれば、自然と他の人の弱さを担うことができ、どんな違いがあっても、互いに一致して、建て上げて行くことができることを悟っていたパウロの、全聖徒に向けられた祈りなのです。