ローマ人への手紙 15:14ー21
礼拝メッセージ 2018.5.27 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,信仰の友として生きる(14〜15節)
結びの言葉として
本論部分の1章18節から15章13節までが語り終えられ、この15章後半部分からは、書物で言えば「結びの言葉」や「あとがき」に近い内容になっています。本を読む時「あとがき」を読む人も読まない人もおられますが、私は必ず目を通します。本の種類によっては、「あとがき」を最初に読むこともあります。こうした部分は、多くの場合、単なる付け足しではなく、むしろ全体のまとめが述べられたり、著者個人が読者に伝えたかった本質の部分が要約されたかたちで語られているからです。パウロがここで述べていることは、まさにこの書に書いたことのまとめであり、「神の福音」を受けた者として、彼自身がどんな使命をもって生きて歩み、これを記したのかが明らかにされています。それは、読者である私たちと関係のないことではなく、私たちも神の御前に生きる一人の人間として、キリストによって贖われた者として、かたちやあり方にはいろいろと違いがあっても、彼と同じ使命や生き方に導かれていることを覚えるなら、この結びの言葉は、誰にとっても意義深いメッセージであると思います。
神の恵みによって大胆に書いた
パウロは使徒職という大事な働きを担っていましたが、それは決して、他の人たちよりも一段高いところにいるとか、自分を特別視して他の人たちを低く見ていたという訳ではありませんでした。14節の最初の「私の兄弟たちよ」という呼びかけは、私も兄弟たちの中の一人であり、あなたがたと同じように善意と知識に満ちるように努めている者であり、皆さんの信仰の友であるということを前提にして、勧めをしているのです。15節で彼は「私は所々かなり大胆に書きました」と告白しています。確かに、パウロは、まだ訪れていないローマの教会の人たち、その大半の人とはまだ会ったこともないのに、人間の罪を語り、自らを主にささげるように、本当に大胆に語ってきました。同じ、主にある兄弟、信仰の友であるパウロが、なぜ大胆に記すことができたのかといえば、それは自分に与えられた神の恵みのゆえであると説明しています。「聖書 口語訳」(日本聖書協会)では次のように訳されています。「しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思い切って書いた。それは、神からわたしに賜わった恵みによって、書いたのである。このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり…」。パウロの大胆さは、神の恵みによることだったのです。神の恵みは私たちを大胆な信仰に導きます。
2,祭司として生きる(16節)
「祭司」(16節)という言葉が出て来ます。厳密に言うと、原文では「祭司の務めをする」という動詞形です。聖書を見ると、祭司は、神殿や幕屋で、神の御前に立って、民のために犠牲のいけにえをささげ、執り成しの祈りを行う人たちでした。パウロは神から委ねられた自分の務めを指して、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています」と述べました。そしてその務めの内容を、「それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです」と記しています。これは彼がどんな目標をもって、福音を宣べ伝え、宣教の働きをしていたのかを明らかにするものです。
再び、12章1節を見ましょう。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」。証しや伝道の働きを考える時、確かにその入口は、できるだけ広く、神の言葉を聞いていただくことだけに集中します。もし信じたいという方々が与えれると、学びをして、洗礼を授けます。でも、それで目標が達せられたのではありません。祭司である私たちは、そのお一人ひとりを神の御前に連れて行き、その「からだを、神に喜ばれる生きたささげ物として献げ」るところまで導く必要があるのです。献身という信仰の従順へ、お一人ひとりを導くこと、それこそがクリスチャンである祭司の役割です。
3,開拓者として生きる(17〜21節)
キリストの御力で
パウロは異邦人宣教の使徒として、神に選ばれ、数多くの土地を訪ねて、奉仕をして来ました。でもそれはすべて、18節にあるように、「キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと」なのでした。このことは、現代の私たちにとって、大きな励ましであると思います。なぜなら、すべての力あるわざは、私たち人間の力ではなく、キリストご自身の御業であるからです。ただ、私という小さな人間、弱さと限界をもった者を用いてくださって、キリストがその中に働かれるということなのです。だから、そこには御霊の大いなる力がともないます。「キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。」(18〜19節)。
キリストにある開拓者
パウロは、「キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを」求めていました。それは、既存の教会で奉仕することに難しさを感じるというような理由では、もちろんありませんでした。一人でも多くの人たちに、福音を伝えたいという燃えるような救霊の情熱から出たことでした。私はこうしたパウロの開拓者的な思いを読む時、好むと好まざるとにかかわらず、現代の私たちもあらゆることにおいて開拓者としての使命をいただいているのではないかと思うのです。日本というフィールドでの宣教の働きは、まさに新しい道を切り開いていくことの連続です。特に、日本の教会は欧米の信仰者と文化から学んできました。もちろん、まだまだそこから学ぶことは多くありますが、そのスタイルまでも全面輸入しても、なかなかうまくいきません。私たちが背景として持っている、歴史や文化、習慣が違うからです。しかし、日本に置かれたキリストの仕え人として、自分たちで聖書を読み、考え、祈り、同じように主に仕えている人たちとの交わりを持ち、分かち合いをしながら、この未開拓の地、日本で、どのように主に仕えていくのかを求めていくのです。時に、悩み、迷い、頭をぶつけながらの歩みとなりますが、決してへこたれません。主がともに歩いてくださるからです。