ローマ人への手紙 16:1ー16
礼拝メッセージ 2018.6.10 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,キリストにある交わりの素晴らしさ
パウロの信仰の友
たくさんの人名が出て来ます。1節のフィベから数えると、固有名詞の名前は、全部で27もあります。ほとんどは聞いたことのない名前です。パウロの書いた他の書簡と比べても、こんなに多くの個人名が列挙されているものは、ほかにありません。理由として考えられることは、パウロ自身、まだ行ったことのない教会であったからです。もしも知っている教会で、自分と親しい人たちの名前だけを挙げて、誰々によろしく伝えてください、と書いてしまうと、受け取った教会の中で、パウロ先生は、あの兄弟の名前を挙げているが、私の名前を書いてくれていない、というような牧会的に難しい対応が生じるかもしれません。パウロはもちろん、そういうことを心得ていました。ここでは、そうではなく、当時の大都市ローマにある教会なので、すでにパウロと交わりのあった人たちを挙げて、その人たちのことをよろしくと言っているのです。どちらかと言えば、ローマの教会へ転出していった人たちの推薦状の目的で記された内容であると思います。
これら多くの人たちの名前を読みながら、教えられることの一つは、パウロが交わりを非常に大切にしていたということです。使徒の働きや、パウロ書簡を表面的に見ると、パウロ一人が初代教会の働きを担っていたかのような錯覚を持ちますが、決してそうではなく、多くの人たちが彼を支援し、協力して、宣教の働きを進めていたことがわかるのです。
有名無名の人々
まず、フィベという女性です。1〜2節で彼女のことを、パウロはローマの教会に推薦しています。フィベについて目が留まることは2つあります。1つは、フィベは「ケンクレアにある教会の奉仕者」であったということです。この「奉仕者」という言葉は、原語ではディアコノスであり、「執事」とも訳せます。今日で言う「役員」や「長老」のような立場であったのかもしれません。教会はこんな昔の時代から、多くの女性たちが主のためにリーダー的な役割を含め、さまざまな働きをしていました。さらに彼女を歓迎するように書いているところから、この手紙をフィベがコリントの地からローマの教会に持ち運んだであろうと言われています。身の危険をともなうこの重要な仕事を、彼女はパウロに託され、見事果たしたということです。
3〜4節の「プリスカとアキラ」は、別の箇所にも記載がありますが、使徒の働き18章によれば、この夫妻はパウロと同業の天幕作りを仕事にしていて、パウロの伝道旅行について行き、御言葉を正しく理解し、宣教の働きをともに担った人たちであることがわかります。この書の記述では、パウロのいのちを救うためにたいへんなリスクを負ってくれた夫婦であったようです。
13節の「ルフォス」は、マルコ15章21節の記述から、イエスの十字架を背負った「クレネ人シモン」の息子であったと考えられています。「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。」また、ローマ書の記載では、「彼と私の母によろしく」となっているので、パウロは、主の十字架を背負ったシモンの妻、名前はわかりませんが、その人に個人的にお世話になったことがあったのかもしれません。とても不思議なつながりであると想像できます。
さらに、9〜12節には、奴隷身分である人たちの名前が多く出て来ると解説している本がありました。全体をよく見ると、名前からも、ユダヤ人と思われる人がおり、あるいは異邦人がおり、そして奴隷もいたということがわかります。そのことから、ここには人種や身分を超えた豊かな交わりがあったことが示唆されています。また、信仰や教会の働きにおいても、ここには、他に何の記録も功績もわからない人たちの名前が連ねられています。もちろん、パウロの心の中にあった人たちです。でも、同時に、これらの有名無名の人たちが、当時の神の国の宣教の良き担い手であり、有名かどうかに関わりなく、主が彼らのことを知っておられるのです。
2,キリストにある交わりの実践
主にある交わりの秘訣ー教会の中で人をどう見るか
「主にある友情」というテーマを掲げましたが、互いに良き信仰の友を見つけて、主にある交わりと友情を深めていきたいと思います。この箇所には、交わりをどのようにして持てるのか、また、どんなかたちで深めることができるのかのヒントが含まれています。 第一に、キリストにある交わりを持つために、他の兄弟姉妹をどのように見るかということが重要であると教えられます。パウロは、これらリストされている人たちに対して、彼自身が相手をどう見て、どう受け止めていたかを示しています。たとえば、パウロは、「私の愛する誰々」あるいは、「私たちの姉妹」とか「私の母」というような呼び方をしています。パウロは教会を、互いに愛し合う神の家族である、と考えていました。また、パウロは、このところで、「支援者」、「同労者」という言葉も使っています。ともに主のために働く仲間として、互いを見て、自分一人ではなく、多くの主にある同労者として交わり、互いに励まし合っていたと考えることができます。
主にある交わりの秘訣ー平安を祈る
第二に、主にある交わりは、相手の祝福と平安を祈ることが、その基本であることを教えられます。この16章では、何回も「よろしく」が出て来ます。日本語の「よろしく」は、「よろしい」という言葉と同じで、良いという意味の改まった言い方です。という意味では、適切な配慮や便宜をはかってもらえるよう人に依頼する言葉です。でも原語ではこれらの「よろしく」は「あなたがたは挨拶しなさい」という命令です。16節に「あいさつを交わしなさい」と書かれていますが、この「よろしく」と原語では全く同じ言葉です。聖書中のあいさつの言葉は、よく知られていますように、ヘブライ語では「シャローム」(ギリシア語では「エイレーネ」)と言い、平安があるように、という言葉でした。神の平和があなたを包んでくださるように、恵みがあるように、祝福があるように、との願いの言葉でした。パウロの「誰々によろしく」とは、15章の終わりにある「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。」という祈りそのものです。それを実践することが、私たちの交わりの基本なのです。