テトスへの手紙 1:1ー4
礼拝メッセージ 2018.6.24 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神のしもべ、使徒というアイデンティティー(1節)
神のしもべ
1節は、原文では、「パウロ、しもべ、神の」という順番です。パウロは、自分を示す時、この「しもべ」という言葉をよく使いました。「しもべ」とは、奴隷の意味です。パウロの書簡を読んでいつも思うことですが、自己紹介の言葉としては、本当に不思議な表現です。私、パウロは奴隷です、と冒頭で語っているのですから。でも、誰の所有としての奴隷かというと、それは神に所属するしもべであることを語ります。続く、「イエス・キリストの使徒」というのも、所属はイエス・キリストです。「しもべ」にしても、「使徒」にしても、誰のしもべであるのか、誰の使徒であるのかが重要です。
キリストに遣わされた者
「使徒」というのも、後世になって、最も高い位のイエスの弟子たちという印象を与えるようになりましたが、元はといえば、その意味は「派遣された者」です。その人自身に何かの権威があるのではなく、遣わした方に本当の権威があります。自分が何者であるのかという意識が、その人の生き方やあり方に大きな影響を与えますが、パウロにとっては、この2つ「神のしもべ」、「キリストの使徒」が、彼の生き方を定めていました。自分が何に属し、どなたの権威のもとにあるのか、を考えることは必要なことです。パウロの持っていた自己認識は、誰によっても、どんなことによっても、損なわれることのないものです。たとい社会的に所属するところを失ったとしても、健康が損なわれてしまっても、神とキリストに所属することは誰にも取り上げられませんし、奪われてしまうことは決してありません。
2,神のしもべとしての務め①神に選ばれた人々の信仰の前進
「神のしもべ」であり、「イエス・キリストの使徒」であるパウロが、神から与えられた働きは、どんなものであったのかが、続いて記されています。「私が使徒とされたのは、神に選ばれた人々が信仰に進み」と書かれています。直訳は「神に選ばれた者たちの信仰のため」ですが、『新改訳2017』の記述に基いて理解すると、神に選ばれた人たちが、信仰に進んで行くように助けることが、その務めの一番目となります。
神の選びは、誰が選ばれているか、選ばれていないかが問題とされますが、そういうことよりも、キリスト者となった人たちは、自分が神によって選ばれたという信仰理解を持つことが大事です。人間には決してわからない、神の選びを受けているかどうかを心配するのではなく、むしろ、選ばれていることの恵みを信じて、信仰に進むことです。「進む」という言葉は原文にはありませんが、神に選ばれている人たちは信仰に進むことが必要です。信仰を求めておられる人は信仰を持って洗礼に進んでいただきたいし、洗礼を受けている人たちにはさらに信仰の確信と成熟に進んでいただくように願っています。パウロの神のしもべとしての務めも、そのような信仰の前進のための援助者、協力者としての働きがまず第一でした。
3,神のしもべとしての務め②敬虔に導く真理の知識の獲得
第二に、パウロの働きは、真理の深い知識へと人々を教えていくことでした。2節を見ると、「永遠」という表現が2度出て来ます。「永遠のいのち」と「永遠の昔」です。人間は、永遠という果てしのない時間のことを頭では理解できても、生きている中で経験することも、実感することもできません。むしろ、常に有限性という肉の衣をまとい、終わりが必ず来る有効期限の中を生きています。神を信じていない人にとっては、永遠という言葉は、実際には存在しないロマンチックな幻想や夢にすぎません。しかし、神を信じるということは、この永遠ということを信じることになり、人間という存在とその歴史を遥かに超えたお方、時間の尺度を超越したお方によるご計画と、この方が与えてくださる真のいのちを希望して生きることになります。
このような真理の深い知識を得ることは、私たちの頭にあるデータバンクに新たな知識を追加するということではありません。パソコンで言うなら、新しいアプリを一つ入れるようなものではなく、むしろOSを変えてしまうばかりか、ハードウェアさえも新しくしてしまうようなことです。そして、敬虔というのは、生き方のことです。神を恐れ、神を信頼して生きる生活です。知識と生活が一致していることが必要なのです。「敬虔にふさわしい、真理の知識」と書いていますが、新国際訳(NIV)では同じ所が「敬虔に導く、真理の知識」と訳しています。また、別のある訳では、「敬虔と一致する、真理の知識」となっています。信仰の知識と生活とが一致するように導くこと、これがパウロが指導していく目標でした。
4,神のしもべとしての務め②神に委ねられた宣教
パウロの務めは、これまでのものをまとめて言うならば、「宣教」という言葉で表現できるでしょう。パウロの宣教の務めは、回心の時にイエスによって語られました。使徒の働き26章等に書いていますが、キリスト者たちを捕縛するために迫害者として道を進んでいたパウロに、イエスが光をもって彼を打ち、語りかけたのです。「わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところへ遣わす。それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである」(使徒26:16〜18)。このように、主によって命じられた宣教の務めをパウロは、熱心に果たしていたのです。
最後に、4節を見ましょう。牧会書簡に共通している1つのことは、次世代のことを考えているということです。宛先人は、テトスという、差出人のパウロから見れば、若い指導者(ヤング・リーダー)でした。神のしもべ、キリストの使徒として歩む務めは、一代限りのものであってはならないのです。次の働き人のことをいつも視野に入れて、進めていく必要があります。自分の次の世代について、関心を持ち、信仰に一歩一歩進めるように、そしてともに宣教の務めを担っていけるように、互いに祈り、助け合っていきたいと思います。