テトスへの手紙 1:5ー9
礼拝メッセージ 2018.7.1 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,受取人の視点で、テトスの手紙を読む
テトスについて
同じ牧会書簡の受取人のテモテは、ギリシア人の父親とユダヤ人の母親を持っていましたが、テトスの両親はともにギリシア人(異邦人)でした(ガラテヤ2:3)。テトスがどのようにして主を信じ、パウロとともに働くようになっていったのかは知られていません。彼は過去、パウロ、バルナバとともにエルサレムを訪問しています。「私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。…しかし、私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強いられませんでした。」(ガラテヤ2:1,3)。それはおそらくエルサレム会議の時(紀元50年)だったでしょう。そしてこの書の執筆年代が63〜65年頃とされていますから、これまで長くパウロとともに働いて来た人であることがわかります。
テトスの名前が数多く出て来るのは、「コリント人への手紙第二」です。全部で9回です。彼は、多くの課題を抱えていたコリントの教会に訪問し、パウロの代理としてその務めをよく果たしたと思われます。「マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。…この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らいでいたからです。…テトスは、あなたがたがみな従順で、どのように恐れおののきながら自分を迎えてくれたかを思い起こし、あなたがたへの愛情をますます深めています。」(Ⅱコリント7:5〜7,13,15)。テトスは、諸問題で群れの危機にあった、コリント教会を訪問して、パウロの期待に応える働きをして、牧会的に問題解決を果たしたと思われます。その上、エルサレムへの献金の働きも始めることに成功しました(Ⅱコリント8:6)。
聖書中、テトスはほとんど目立つことのない人ですが、教会を再生させた、すぐれた牧会者でした。歴史上、「テトス」(Titus)という名前で知られている人物は、二人います。二人のテトスです。彼と同時代人のもう一人、ローマ帝国の将軍で後に皇帝となった人物が同じテトスでした。日本語表記では、こちらはティトゥスですが、彼はユダヤ戦争において、神殿である神の家を破壊したことで戦功を上げました。しかし、私たちのテトスは、地味で華々しさはなくても、神の家である教会に仕え、教会を建て上げることで、その名を残したのでした。一人のテトスは神の家を破壊し、もう一人のテトスは、神の家を建て上げたのです。
テトスに与えられたクレタ島での任務
5節にテトスに与えられた役割が2つ述べられています。「私があなたをクレタに残したのは、残っている仕事の整理をし、私が命じたとおりに町ごとに長老たちを任命するためでした」。一つは残った仕事の整理であり、もう一つが町ごとに長老たちを任命し、立てることでした。なぜ、長老を任命するのでしょうか。宣教と牧会のために、健全な教会を建て上げて行くために、長老というリーダーシップを持つ人が必要だったからです。6節から9節まで、どんな人を長老として、監督として任命すべきかが記されています。同じ牧会書簡の「テモテへの手紙第一」の3章にも、「監督」と「執事」の資格条件が列挙されています。その中の審査基準に達しているかどうか、というような読み方も確かに必要なことなのですが、みことばはその適用としては、すべての人にとって意味のあるものであり、何らかのメッセージが差し向けられていることを前提と考えるならば、どなたであっても、ここの箇所を手紙の受取人であるテトスの気持ちで読むことが必要であると思います。
テトスは、こういう長老(監督)という教会のリーダーの基準をパウロに示されて、自らのことも振り返ったと思います。長老を任命する立場に置かれた自分はどうなのかと。また、自分がここに記されているようなキリストの弟子となるように、これまで次の世代や周りの人々とどう関わり、どのように教え、そして彼らの成長をより良く援助することができたのか、という自問自答に導かれたと思います。
2,神の視点で、自分と自分が置かれている世界を見る
人間の内側をご覧になる神
この長老(監督)に選ばれる条件として挙げられている内容を見ると、一つの特徴として、外面的なことではなく、その人の内側、あるいは裏側がどうか、というところが問題にされていることに気づきます。夫婦としての生活、親子関係など、社会生活では他人の目から隠れている部分です。でも、神はそこをご覧になっておられることがわかります。表面上は見えない部分にこそ目を留めておられるのです。
神が、ダビデを召して、油注がれた時の言葉を思い出します。「主はサムエルに言われた。『彼(エリアブ)の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る』」(Ⅰサムエル16:7)。私たちの外面的なこと(聖書知識、学歴や職歴、様々な資格や特技、運動能力等)も、人間としては素晴らしいことかもしれませんが、神の御前では誇れるものではありません。むしろ、あなたのプライベートの時間はどうですか、あなたの家庭生活はどうですか、と神はお尋ねになっています。
みことばへの姿勢をご覧になる神
もう一つの特徴として、神のみことばと教えをしっかりと生活の中で保持しているかどうか、ということが問われています。9節を見ましょう。「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです」。この「しっかりと守る」という言葉は、原語で、堅く保つ、くっついて離れないというニュアンスがあります。みことばへの強い執着心が読み取れます。神が注目されているのは、その人のみことばへの反応であることがわかります。「—主のことば—わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ66:2)。