「健全な信仰を目指して」

テトスへの手紙 1:10ー16

礼拝メッセージ 2018.7.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,クレタ人は嘘つきなのか? ー 厳しく戒めよ

「クレタ人はいつも嘘つき、…」

 聖書の言葉を読んで、いろいろな感動を覚えると同時に、困惑するような文章にも時々出会います。私は青年の頃から、聖書を読んできましたが、このテトス1章12節の「クレタ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠け者の大食漢」は、なぜこんな言葉があるのか、不思議に思っていました。最後の「怠け者の大食漢」は、前の第三版の訳では「なまけ者の食いしんぼう」となっていましたし、「怠けた食い道楽」(岩波書店)と訳しているものもあります。直訳すると「怠惰な胃袋」となります。いずれにしても、人々を指していう表現としては、とてもひどい言葉です。
 もちろん、これはこの書簡を書いたパウロの言葉そのものではなくて、紀元前500年頃のエピメニデスというクレタ島の詩人の言葉の一節です。どう考えたら良いでしょうか。

クレタ人とは?

 では、クレタ人はそんなにひどい人たちだったのかというと、あるいはクレタ人だけがそうだったのかと考えると、そうではないと思います。聖書全体を読むと、名前の出て来る多くの民族について、彼らの中にある罪深いところが糾弾されている記事はいくらでもあります。クレタ島は、エーゲ海の青く透き通る海に囲まれた緑豊かな大きな島(東西260キロ、南北20〜60キロ)で、現在は、たくさんの貴重な遺跡群のある、人気のある観光スポットです。クレタ島は、クノッソスのミノア宮殿に代表されるように、紀元前2000〜1400年にはエーゲ文明の中心地として栄えました。特に、その文明の高さは、多彩な色で染められた陶器や石の容器、金の装飾具などに見られ、紀元前2100〜1100年頃のクレタ文字という絵画文字が用いられたことも考古学的発見でわかっています。
 このように一時期は、地中海世界で最も文化が進んでいる島でした。おそらく、この手紙の当時も愚かさだけが目につくような人たちでは決してなかったでしょう。それでは、なぜこのような厳しい言葉が書かれたのでしょうか。それは、この手紙の背景と関係していると思われます。

偽りの教えを奉じる人たち

 テトスの手紙に目を留めると、ここでテトスに語られた注意事項は、クレタ人だけのことではないこともわかります。「反抗的な者、無益な話をする者、人を惑わす者」(10節)、これらは、割礼を受けたとされる律法主義的なユダヤ人たちのことでした。彼ら偽教師たちが、あるいはその偽りの教えを奉じる人たちが、教会を分裂に追い込み、そして多くの家庭を破壊していたと言っています。特に、クレタ人だけがその性質や、民族的体質として問題があったことを示すために、この箇所が神の御言葉として残されたのではありません。当時、クレタ島にたくさん生まれていた教会が、非常に大きな危機を迎えていたという状況がありました。生まれたばかりの諸教会へのパウロの懸念が、エピメニデスの表現さえも使ってのこれらの文章になったと想像できます。


2,教会の本当の戦いとは何か? ー 信仰を健全にせよ

偽りの教えによる問題

 クレタ人と、偽りの教えを持つ人たちとの共通の問題は、嘘や偽りが彼らにあったこと、そしてその教えを隠れ蓑にして潜む汚れた欲望でした。これら誰の中にも存在する罪こそ、教会や信仰者が戦わなくてはならない課題でした。
 「嘘つき」という言葉がありましたが、日本に住んでいる私たちも、文化的に嘘をつくことがそんなに大きな問題であると思っていないと思います。もちろん、その内容や状況、程度でだいぶ異なることも事実ですが。「嘘も方便」と言って、やむを得ないこととして、簡単に嘘をついてしまい、そんなに罪悪感を抱かないこともあるでしょう。そういうことが当たり前に受け入れられる環境の中に生きていて、嘘をつかないで、正直に生きること、真実を語ること、自分をよく見せるように作らないこと等、神の御前にある人間として、そしてキリストに従う者として、日々格闘していかなくてはならないのです。
 そして、このような真実なあり方で生きることに対して妨げとなるのは、心の奥底にある隠れた欲望の力です。そうした恥ずべき動機を、もっともらしい事柄や、立派に見えるような教えで覆い隠してしまう、それが当時の偽りの教えを教会に持ち込んで来る人たちの姿でした。
 恐ろしいことに、従順ではなく「反抗」する生き方や、何の益にもならない空理空論を弄ぶような生き方や、汚れていることをきよいものと宣言して虚構の土台の上に安楽するような生き方は、人々の耳に心地よい教えとして受け入れられ、広がります。10節にあるように、どんどんと増殖していくのです。ちょうど伝染性の病気のように恐ろしいものです。
 パウロの勧めを聞くと、そうした偽りの教えを語る者の口を封じるようにしなくてはいけないし、13節では、「彼らを厳しく戒め」なさいと命じています。この「戒める」は、ギリシア語辞典の解説では、彼らの考えが根本的に誤っていることを明らかにする、という意味であると書いています。同じ単語が、ヨハネ16:8にあります。「その方が来ると、罪について、…世の誤りを明らかになさいます」。

健全な教えを持つということ

 考えが誤っている人に対して、厳しく語っても、戒めの言葉を告げても、かえって逆効果になるかもしれません。むしろ、この書が強調している「健全な教え」(1:9、2:1)を私たち自身がしっかりと堅持し、聖霊の働きを期待して祈り、健全な生き方を示すことによって、彼らの考えが根本的に誤っていることが明らかにされ、気づいていくのではないかと思います。健全な教えを持つということは、正しい信仰の知識や正統的な神学を奉じるということだけではなく、自分の内にある嘘や偽り、そして欲望と戦って、言行一致の信仰を求めていくということが必要なのです。「健全」あるいは「健康」というような言葉が示しているように、それは静止状態のようなものではなく、動的でいつも生き生きと命の躍動にあふれた歩みです。10〜16節は、少々激しい言葉が並んでいるように見えますが、そこに当時の状況に対する危機感が感じられるとともに、パウロの健全な教会を建て上げることへの強い意志と、燃えるような情熱が表されていると思います。