テトスへの手紙 2:11ー15
礼拝メッセージ 2018.8.5 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,初臨と再臨との間に生きる
初臨と再臨との間に挟まれた時代
聖書が語っている言葉の理解から言えば、パウロやテトスが生きた時代も、そして現代のこの時代も、12節の「今の世にあって」ということの中に含まれていることになります。自分が生きている「今」という時を、どういう時代と見るかを、この箇所は示しています。この世界は、確かに「不敬虔とこの世の欲」(12節)の渦巻く時代です。正しく敬虔に生きて行くにはあまりにも誘惑が多く、とても困難な時代だと思います。罪の世であり、邪悪で曲がっている時代です。しかし、聖書は「今」という時を、このような悲観主義的に映る一面だけで、描いてはいないのです。
11節と13節とを御覧ください。11節では、「すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れた」とあって、これはキリストが人となってこの世界に来られたことを証しし、宣言しています。今から2000年前、キリストは、神の恵みの光を輝かせるために、この世界に来られました。十字架と復活を通して、私たちを罪から贖い出し、救いの恵みを与えてくださいました。神の恵みの体現者として、主は来られたのです。その最初の現れを、キリスト教では、初臨と呼んでいます。そして、次に13節です。「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望む」と記されています。これは再臨のことです。「そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます」(マルコ13:26)とキリストご自身が語られたことです。このように、今の時代を単に罪と暗闇の世界とだけ見るのではなく、キリストの初臨と再臨との間に挟まれた時代、「神の恵み」が現れ、「祝福に満ちた望み」「キリストの栄光ある現れ」につながる時代として、聖書は語っています。
恵みの時代
ディスペンセーション神学では、今の時代を「恵みの時代」(Dispensation of Grace)と区分していました。確かに、聖書が語っているところから、今という時代を「恵みの時代」と呼ぶことは間違っていません。しかし、恵みという言葉が、人間にとって、恵まれた、幸福な時代のように理解してしまうと、私たちの直面している様々な現実や歴史と合致しているようには思えず、そのギャップから聖書の描く歴史を空想の物語のように見てしまいかねません。
パウロはコリント第二の手紙で「神は言われます。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。』見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)と記しています。ただ主を見上げ、悔い改めて信じることにより、神から救いをいただけることが、今が恵みの時、恵みの時代であるということの意味でしょう。それは確かにその通りなのですが、それだけではないことを、本日の箇所は明らかにしています。それは、神の恵みを経験できる時代、神の恵みによって歩むことができる時代ということではないかと思います。
2,神の恵みに訓練される
神の恵みは、不敬虔とこの世の欲望を捨てさせる
実は、本日の聖書箇所は原文では、かなりの長文で、11節から14節までが一つのセンテンスです。そしてその中心部分は、「神の恵みが現れた」(11節)こと、そしてその「神の恵みが…私たちを…教えています」(13節)というところです。原文によると、「神の恵みが教育する」、あるいは「訓練する」と訳せます。この同じ語(パイデウオー)が子どもを躾けて「懲らしめる」と訳されているところもあります(新改訳第三版 ヘブル12:7)。
神の恵みというと、私たちを優しくケアし、リラックスさせ、何でも赦してくれるようなものを想像しがちです。ところが、ここで神の恵みというのは、私たちをしっかりと教育し、訓練と懲らしめを与え、成長を促していくものであることが明らかにされています。ですから、12節で神の恵みが私たちに示されることの第一は、不敬虔とこの世の欲望を捨てさせることと書かれています。「捨てる」というのは、それを完全に否定し、拒み、受け付けないことを意味しています。神の恵みは、すべてに寛容で、何でもオッケーを出すような柔弱なものではなく、私たちが正しく「ノー(No)」という否定をハッキリと言わせるように導く、力強いものです。
神の恵みは、慎み深く、正しく、敬虔な生活に導く
12節「今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し」という表現は、主の降誕預言としてザカリヤが語った「私たちのすべての日々において、主の御前で、敬虔に、正しく。」(ルカ1:75)を思い起こします。キリストという神の救い、神の恵みが来られると、人々の生き方が変わり、真に生き生きとした歩みをもたらすと預言されていたのです。14節では、「私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため」と書いています。イエス・キリストによる救いの御業は、救うということがその目的なのではなく、「ご自分のものとしてきよめるため」であることが明言されています。神の恵みが現れたのは、この世にある私たちを、慎み深く、正しく、敬虔な歩みに導いて、良いわざに励ませるという目的のためでした。
神の恵みは、キリストの再臨を待望させる
さらに、神の恵みは、キリストの栄光ある現れを待望させます。13節の「祝福に満ちた望み」は、神の祝福の領域に、私たちの思いを向ける希望というようなことです。恵みの時代に生きて、いろいろな恵みを経験することができても、この世にあってそれだけで完全で、絶対的なものを、私たちは見ることも経験することもできません。かと言っても、不完全なこの世での生活を軽んじて、誠実な歩みを放棄することは間違っています。この世にあって、神の恵みによって整えられつつ、忍耐をもって、主の再臨を待ち望んで歩むことが、私たちの導かれている生き方です。「私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。…キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」(Ⅰヨハネ3:2~3)。