テトスへの手紙 3:1ー7
礼拝メッセージ 2018.8.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,社会への義務と主にある生き方を思い起こそう
思い起こすということ
1節「あなたは人々に注意を与えて」(新改訳)とありますが、直訳は「あなたは彼らに思い起こさせなさい」という命令の言葉です。テトス書の特徴で、先にこうあるべきという実践が語られて、その後にその理由や根拠を述べます。この箇所も1〜2節で、社会でどう歩むべきかの指示があり、どうしてそんな優しさに満ちた穏やかな歩みが可能であるのかというと、その理由として3節で、かつてはあなたもこの世にあって、神を知らず、欲望のままを歩んでいたではないですか、と語ります。しかも4節からは、そんな自分が変えられたのは、神の愛といくつしみが現れたからでしょうと、掘り下げていくように順々に語るのです。ここで言う、思い起こすというのは、過去の思い出や記憶を呼び覚ますというだけではありません。それは、神の素晴らしい愛と恵みに気づくことに始まり、そして自分がかつてどういう者であったのかを振り返り、しかし、神の恵みに生かされている今、私はどのような者として歩むべきなのかを考えることなのです。
政府や社会に対してどうあるべきか
まずこの社会において、指導的立場にある人々に対して(ここでは特に、政府や国の権威に対して)、どうふるまうべきかが述べられます。2章では、教会内のことが語られていましたが、ここでは一般社会でのあり方が語られています。社会に立てられた権威に対する従順は、テモテへの手紙第一でも、こう記されています。「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。」(Ⅰテモテ2:1〜2)。過去の歴史の中で、キリストに従う人たちは、時の政府から危険分子とみなされて、いわれのない迫害が数々起こりました。それでキリスト者のリーダーたちは、護教論的な手紙を政治指導者たちにいろいろと送って、擁護するように嘆願して来ました。メノー・シモンズもそうした手紙を多く書き残しています。テトス書は、教会リーダーに宛てて書かれたものですので、そういう護教論ではないのですが、キリスト者たちが、主に許されて立てられている政治指導者たちや政府に対して、間違った考えや態度で生活しないために、こうしたことが記されたのです。
個人の生活においてどうあるべきか
2節「だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい」と書いている態度のあり方は、基本的には「優しさ」が必要であるということです。「礼儀正しい者となるように」というのは意訳で、「すべての人に心から優しく接しなければならない」(新共同訳)という意味です。ダイレクトに表現すると「すべての人々に対して、あらゆる優しさを示す」ように命じられています。それは他の人に対して、優しくあるように要求することではなく、自分自身が優しく生きることです。これは本当に難しいことです。生まれながらの人間の内側には生じることのないような愛です。そこで、第二の「思い起こし」が必要なのです。自分が以前はどういう者であったのか、それなのに神のあわれみを受けることができたということです。
2,神の恵みを知る以前の自分を思い起こそう
神の啓示に対して、無知で無関心であったこと
3節は「私たちも以前は…」と始まりますが、「なぜなら」という言葉が最初にあります。かつての私たちを示す7つのことが書かれています。最初の3つ「愚かで」「不従順で」「迷っていた者」は、神のことばに対して、無知であり、無関心であったことを示しています。聖書が語る「愚かさ」は、神を知らないという無知、あるいは神の愛と義を知らないことに対するものです。詩篇に「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。」(詩篇53:1)と書いています。「神はいない」というのは、現代的な無神論というよりも、実践的な神不在の考え、つまり表面上は神を信じていると言うが実際は神の存在を信じていないかのような、神を恐れることのない、不敬虔で堕落した歩みをしているということです。だから、「心の中で」「神はいない」と言っているのです。
罪の奴隷状態であったということ
さらに、「いろいろな欲望と快楽の奴隷になり」と、以前の状態が記されています。「真理はあなたがたを自由にします」とイエスが言われた言葉に対して、「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません」と当時のユダヤ人たちは反応しました。それに対してイエスは「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」と言われました(ヨハネ8:31〜34)。好き勝手に生きていると自由を謳歌していても、その自由と思っているものがその人を縛って不自由にし、征服されてしまっていて、そこから離れられないということです(参考;Ⅱペテロ2:19)。
3,神の愛と救いの恵みを思い起こそう
神のいつくしみと愛が現れたこと
4〜7節は、最新のギリシア語校訂本では、詩文体として表現されています。もしかすると当時、賛美歌として広く知られていたフレーズだったのかもしれません。確かに美しい文章です。2:11では「神の恵みが現れた」でしたが、3:4は「神のいつくしみと人に対する愛が現れた」と書いています。これは紛れも無く、救い主キリストの来臨を指しています。ロゴスである神が、人(肉体)となって、罪と汚れに満ちた世界にやって来てくださいました。人を救い、再生し、刷新するために、キリストは現れてくださったのです。主のみわざがなければ、私たちを義とするものは何もなく、すべては神の一方的な、愛とあわれみです。
聖霊が豊かに注がれていること
5節の「聖霊による再生と刷新の洗い」が何を意味しているのかは、種々の解釈があります。しかし共通しているところは同じです。神は、私たちを新たに生まれさせるということにおいて再生し、その霊的立場や状況を刷新して、新しく生きることができるようにしてくださるということです。それを可能にされる聖霊が「豊かに注がれている」ということです。