テトスへの手紙 3:8ー15
礼拝メッセージ 2018.8.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,「このことばは真実です」ー 真実なことばに信頼する
信頼に値することばを持っていますか
3章8節の最初の文章は、「このことばは真実です。」と短く表現されています。(以前は「これは信頼できることばですから」)。このことばは、牧会書簡共通のキーワードで、5回も同じ文章(ギリシア語では、ピストス・ホ・ロゴス)が出て来ます。「真実」とは、英訳などにあるように、信頼できる、信頼に値するという意味です。何が信頼に値するかといえば、ここで言明されている「ことば」です。広くとらえるなら、聖書のことば全体と言って良いでしょう。ところが、現代においては、多くの人々は、「このことばは真実です。」と言い切れるような信頼に値する何かを持っていないように思います。そのかわりに真実ではないことばが溢れています。見せかけのものや、一時的なものがほとんどで、どんなに期待し、信頼したとしても結局は裏切られてしまうことを、世の多くの人たちがその経験から感じ取っています。
聖書の書かれた時代はどうであったかと言うと、9節「一方、愚かな議論、系図、争い、律法についての論争は避けなさい。それらは無益で、むなしいものです。」とあるとおり、信頼できない教えや考え方が、教会の外側だけではなく、教会の内側にも入り込んできていました。健全な教えから引き離そうとする誘惑の力が絶えずありました。それらは無益で、むなしく、何の実をも結ぶことのないものでした。無人島に持って行く一冊として第一に選ばれるのが聖書であるということも、多くの人々が、これこそが信頼に値する、一生読むに値する書物であると思っているからでしょう。ユニバーサルという意味での普遍性、そしてアンチェンジングという意味での不変性を持った絶対的に信頼できる宇宙第一の書物です。
真実なことばに信頼していますか
それでは、牧会書簡の中に、どんな真実なことばやメッセージがあったのかを見ていきましょう。このことばは真実であると宣言できる第一のことばは、テモテ第一1章15節で、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」です。私たち罪人を救うためにキリストは来てくださったのです。このことばに信頼していますか。
第二の信頼できることばは、同書3章1節の「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである」という文章です。「監督」とは、今で言う牧師職と理解できます。神の教会の働きのために、献身を願う人たちが起こされること、これを大切なこととして求めているでしょうか。働き人となるために神学校に入りたい人たちは、「立派な働きを求め」ているのです。
第三の信頼できることばは、「今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。」牧会書簡の中でパウロは、「敬虔」(神を恐れ敬うこと)であることを求めるように、強く勧めています。テトス1章1節で「神に選ばれた人々が信仰に進み、敬虔にふさわしい、真理の知識を得るため」とパウロの使徒職の目指すところを述べています。誰もが第一に求めなければならない生き方が敬虔です。
第四の信頼できることばは、テモテ第二2章11〜13節です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」。このところは、全体的に未来の確かな希望を明らかにしています。
第五の信頼できることばが、テトス3章4〜7節のことばです。長くなるので、前半だけを引用します。「しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました」。再生の洗いと聖霊による刷新、という素晴らしい神のみわざによって、私たちは変えられ、「永遠のいのちの望みを抱く相続人」となりました。
いかがでしょうか。神が私たちのためにしてくださったみわざが、嘘偽りのない真実なものであり、これらのことばは信頼できるのです。アンプリファイド訳聖書で8節の最初は「このメッセージは、最も確実なものである」(This message is most trustworthy)と訳されています。
2,「良いわざに励むこと」ー 真実なことばに導かれる
真実なことばは良いわざに導く
この真実なことばを持っていることが、「良いわざ」につながると聖書は続けて語ります。3章全体を見ると、「良いわざ」を行うことが、3回記されています。1節で「すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい」、8節「神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです」、14節「差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません」。牧会書簡やこのテトス書で明言されていることは、「真実なことば」あるいは「健全な教え」と、「良いわざ」は、車の両輪のように一緒に働くということです。神のことばの真実を確信しているならば、それが必ず良い行動へと駆り立てるのです。
有益で、実を結ぶものを選択する
真実ではないことばは、無益で、むなしいものであり、良い実を結ぶことはありません。9〜11節で語られているように、そうしたことの中に引きずり込まれないように、彼らを避けること、彼らを拒むことが、警告として語られています。
12節からは、聖徒たちとの交わりや奉仕が奨励されています。私たち一人ひとりが、何が有益なことであるのか、何が実を結ぶものであるのかという霊的な判断力を持つことが必要なのです。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)。私たちは終わりの日の困難な時代に生きているのです(Ⅱテモテ3:1)。敬虔に生きることが難しい時代なのです。だから、テトス書は、あなたは、何が真実なことばであるのかをはっきりと確信し、良いわざに努めるようにと、語るのです。若くして世を去った詩人の八木重吉は、「聖書をよんでも/いくらよんでも感激がわかなくなったなら/聖書を生きてみなさい/ほんのちょっとでもいいから」と書いて、真実なことばに生きる道を詩で表しました。